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『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その2【宗教】について

   ↑  2017/09/16 (土)  カテゴリー: シリアス、社会派
はい、こんばんは!
前記事では、マーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画『沈黙 - サイレンス -』の【言語】【宗教】【文化】3点セットのうち、個人的に興味深かった【言語】についてまとめてみましたが、今回は【宗教】について。

他の映画についても早く書きたいし、ちゃちゃっといってみよー!








【宗教】 日本人 遠藤周作の原作小説「沈黙」

沈黙

深い河 (講談社文庫)

『沈黙』をめぐる短篇集



キリスト教を「着せられた洋服」「自分の体に合わない洋服」と感じていたという遠藤周作。彼の原作小説「沈黙」は、遠藤自身の幼い頃からのキリスト教徒としての在り方への疑問、カトリック教徒としての違和感が底辺に流れています。

そのため、「沈黙」の原作そのものが遠藤自身のカトリック教徒としての居場所探しであり、日本(もしくは東洋)独特の宗教観あるいは信仰心を融合させた新たなキリスト教像を生み出した物語なのだろうなと強く感じました。



①「人々の前で告白する」ことの重要性

私なんかからしますとね、もう、みんなの命がかかっているんだから踏んでおけばいいじゃんいいじゃん「形だけでイイ」「かすめるだけでもいい」って言ってるんだから踏んじゃった方が皆のためだよ!なんて思ってしまうわけですが、この"形だけ"というのが問題なんだろうなぁ。

新約聖書にある「マタイによる福音書」第10章26-33節には、福音宣教のため派遣される12人の弟子たちにイエスがその心得を説いたものが書かれています。
「人々の前で私の味方であると宣言する者を、私もまた天におられる父の御前で私の味方であると宣言する。しかし、人々の前で私を否む者を、私もまた天におられる父の御前で否むであろう。」(マタイによる福音書10:32-33)


カトリック(聖書の解釈は教会の仕事)と、プロテスタント(聖書の解釈は個人)。

この映画を観た後、私は日本にあるそれぞれの教会の説教というものを色々読んでみたのですが、まずひとつは「私は主イエス・キリストを信じる者です」と人々の前で告白することが大事だから「踏絵を踏む=キリスト教徒ではないと宣言する」なんてトンデモナイ!という考え。そしてもう一方では「イエス様は弟子たちの弱さ・孤独・苦しみも知っていたし他の町へ逃げなさいとも仰っていた。主は我々の心の内にどんな時も共にいてくださるのです」という、約二通りほどの解釈を読みました。


その中でも、最も強烈かつ興味深かったのは東京基督教大学の教授だった小畑進牧師による「遠藤周作著小説『沈黙』論」

こ、これは秋の夜長の眠気も吹っ飛びます。
PDFで読むことができますので、映画を鑑賞された方は是非!

宗教とは常識的な人間の論理に対しては異常なものなのであり、神の主権を人間の情愛の中に曖昧にしたり、見失ってしまったりしては成り立たないものであることを銘記させられなけれななりません。
 (中略)
小説「沈黙」の人間へのもたれこみは、作者の軽い作品と通じて、その甘さにむせてしまうのです。
小畑進牧師 「遠藤周作著小説『沈黙』論」(『基督神学』4号、1988年)

・・・そ、そうなのか。"神"というもの、"救い"というものに対する概念は、本物の聖書に基づいた宗教となると私が持つものなんかとこれほどに違うのか・・・と非常にビックリいたしました。遠藤周作の原作小説に漂う"ある種のナイーブさ"は見事なまでに木端微塵・・・・・





②遠藤周作のエキュメニズムと、日本的な「寄り添う神」「赦す神」 日本独自の寛容性を内包した信仰

拷問の末、無残に息絶えていく信徒たち。美しい天使が吹くラッパの音が鳴り響く、そんな輝かしい"殉教"を信じていたロドリゴは、壮絶な拷問を受け続ける信徒たちの姿に耐えられなくなっていきます。そして「なぜ、主は沈黙を続けるのか」と。


「それでよい。よいのだ。踏みなさい。お前の痛みは知っている。私は人々の痛みを分かつためこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ。お前の命は私と共にある。踏みなさい。」
●映画「沈黙-サイレンス-」 日本語字幕より

心のうちに響いてくるんですねぇ。"声"が。
自分が踏めば、転べば、多くの日本人キリシタンの命が救われるという、一人の人間としての良心の呵責。そしてそれを実行するにあたって圧倒的な自己肯定力として、イエスの存在が「ともに苦しむ」というものに変容していったのだろうと思うのです。

そして、このロドリゴの心の動きは、カトリックとプロテスタントの教会一致促進運動(エキュメニズム)を推進していたという遠藤周作自身の姿と重なるものがあります。



心の痛み、挫折、弱さ、絶望を通して、「怒り、正義、裁きの神」から「母なる神=慈母、慈しみ、慈悲、憐れみ、寄り添い」の存在へ。

これは母性的な「聖母マリア崇拝」に近いとも思いますが、「同伴者としてのイエス」とも言われ、置かれた状況にあわせて信仰を守る、形式に捉われない日本人の姿(善し悪しは別として)を強く感じさせるものです。そしてここから 「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」という遠藤周作の切実なる思いに辿りつくものだと思います。 

映画化にあたってマーティン・スコセッシ監督もインタビューでこのように述べています。
要するに、権威的なアプローチで教えを説くのではなく、キリスト教の中の女性的な面をもって説くのが、日本で受け入れられるやり方ではなかったでしょうか。隠れキリシタンの人たちも、実はキリスト教のそういう面にひかれていたのではないかと思うのです
M・スコセッシ監督が語る 『沈黙』を映画化した意味【NIKKEI STYLE】





④キチジローと遠藤周作、弱き者を否定しないスコセッシ監督
NHK BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」
NHK BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」

これまでこの「沈黙」という小説は、遠藤独自の、日本人独特の宗教観を表した物語だと書いてきましたが、ボーンクリスチャンであるスコセッシ監督は、実はずっと以前からこの物語に共鳴していたのですね。

初めて「沈黙」を読んだスコセッシは大きな衝撃を受け、まるで彼個人に話しかけられたような気がした。「遠藤が本で提示したテーマは、私がとても若い時からずっと考えていたものです。私はこの年になっても、信仰や人間のありようについて考え、疑問を感じていますが、これらは遠藤の本が直接的に触れているテーマなんです」
 (中略)
スコセッシは書いている。「――ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼が知っている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」
映画『沈黙』プロダクション・ノート「企画のなりたち」より


イタリア系アメリカ人としてシシリー系移民が多く住むニューヨークの下町で育ち、カトリックの神学校に通って司祭になることを目指すも中退、その後は裏社会や暴力を描きながら信仰や罪、贖罪といった道徳や宗教的な テーマを通じて社会の暗部や人間精神の奥底をあぶり出していく作品を多く世に送り出してきたスコセッシ監督。

そして、「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を抱え、カトリック教徒でありながらカトリックに対して疑念を抱き続けていたという遠藤周作の葛藤。苦悩。



キチジローの言う「この世の中に、弱き者に生きる場はあるのか?」というロドリゴへの問いかけは、まさにスコセッシ監督、そして遠藤周作からのメッセージとなるのでしょう。苦悩や葛藤、迷いを持つ、そういった人間の弱さを包容できてこそ人生に意味があるということを。

また、スコセッシ監督は「あなたが、最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」という、弱いものに寄り添うことが大事だと説いた部分(マタイによる福音書25章31~40節)が好きだとも仰っていました。弱き者に手を差し伸べるとはどういうことなのか?本当の意味での献身とは?この映画の最も重要な部分に繋がる言葉だと思います。



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余談ですが、この映画を観ていて思い出したのが、2003年のスウェーデン映画でイングマール・ベルイマン監督の『サラバンド』でした。

『サラバンド』 (2003/スウェーデン)

ベルイマン (Century Books―人と思想)



牧師の子でありながら、生涯ベルイマンが苦しみ、自問し続けたのは「神の不在」でした。
これを観た時にも書いたのですが、救いや癒し、導きとなるはずの宗教が、どうして罪悪感に苛まされる存在となってしまうのか?どうして自分自身を苦しめるもととなってしまうのか?

ベルイマンが『沈黙』を観たら一体どんなことを感じただろうな。
そんなことを考えてしまいました。



ハイ、というわけで次回は『沈黙-サイレンス-』の最終回【文化】についてupして〆たいと思います。・・・・・おわるかなーおわるかなー




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  2017/09/16 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ ↑ | edit

『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その1【言語】について

   ↑  2017/09/08 (金)  カテゴリー: シリアス、社会派






沈黙 - サイレンス - [Blu-ray]


●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他
●17世紀、江戸初期。日本で布教活動を行っていた高名なポルトガル人宣教師フェレイラが、キリシタン弾圧を進める幕府の拷問に屈して棄教したとの知らせがローマに届く。さっそく弟子のロドリゴとガルペが真相を確かめるべく日本へと向かい、マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎の隠れキリシタンの村に潜入する。そして村人たちに匿われ、信仰を通じて彼らと心を通わせていく。やがてロドリゴたちの存在は、狡猾にして冷酷な手段を駆使して隠れキリシタンをあぶり出しては、彼らに“転び(棄教)”を迫る長崎奉行・井上筑後守の知るところとなり・・・。




Martin Scorsese’s Silence To Be Released By End of 2016【AwardsDaily.com】
Martin Scorsese’s Silence To Be Released By End of 2016 【AwardsDaily.com】
おぉ、"沈黙"の中に十字架があるというこの構図。スゴイんだけど、漢字の下の部分があるのかどうか気になって仕方がない・・・・



て。
今回のこの『沈黙』という映画なんですけれど、映画評論家の方々や各分野における専門家の皆様の分析が大変面白かったので、私がこれと言って書けることは特に何もないのです。

・・・とか言ってしまうと身も蓋もないので、せっかくなので「どの分野のどんな点が興味深かったのか」くらいはまとめておこうかなと思います。

『沈黙』の鑑賞には【言語】【宗教】【文化】の3点セットがもれなくついてきまして、色々と調べたり驚いたり考えたりしているうちにとても長くなってしまったので、これを3回に分けて投稿しようと思います。今日は【言語】についてです。

今年の夏は『ハクソーリッジ』とほぼ同時鑑賞の『沈黙』のおかげで、お休み丸つぶれですよ。ありがとうございました(笑)。原作小説や関連する論文やインタビュー記事を夜な夜な読むのが面白かったです。未知の分野に出会うって、おもしろいですねー。








【言語】 棄教する="転ぶ"?


BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」の中での、ブリガムヤング大学アジア・中近東言語学部日本文学教授ヴァン・C・ゲッセル(Van C. Gessel)氏の講義が大変興味深かったので書き残しておこうと思います。

・棄教する : Apostatize
・ころぶ : fall down


"Apostatize"だと強い意味合いでの"棄教"、つまり信仰を完全に捨て去るということになるけれど、日本のキリシタンたちは" fall down"ころんだのだ、と。
       ↓   ↓  
転ぶと人間はどうするか? → また起き上がることができる
つまり、転んでも再び立ち上がる、再起することが出来るのだ!というかなり前向きな捉え方をされていました。へぇー、私はどちらかというと「踏絵を踏んで"転んだ"」というと、"無理強いされて意志を貫けなかった"というようなネガティブなイメージで捉えていたので「本当かいな!」と、ちょっと言葉の語源について調べてみました。



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参考にさせていただいたのは、国際基督教大学リポジトリに保存されている国際基督教大学学報『アジア文化研究』 35号 (2009年3月30日発行) 岸本恵実さんによる(研究ノート) キリシタンの棄教を表す「ころぶ(転ぶ)」という言葉について(p.111 - p.123)です。

16 世紀末全国統一政権によりキリシタンが棄教を強要される事態が起こったころから、動詞「ころぶ」は、本来持っていた意味から棄教する意味で比喩的に用いられるようになったと考えられる。

当時「ころぶ」という言葉は現代語と比べると「回転する」よりも「下方に落ちる」「立っていたものが倒れる」という意味合いが強く、外圧を受けて保っていた信仰を放棄することを否定的な感情を伴って端的に言い表すのに、適当でごく身近な表現であったと考えられる。

話し手の否定的評価を含む(非キリシタンが用いた例が多い)。非キリシタンからすれば改宗は肯定されることであったはずだが、信仰を貫けなかった者に対する侮蔑の感情を含んでいる。
●(研究ノート) キリシタンの棄教を表す「ころぶ(転ぶ)」という言葉について ( (Research Note) The Japanese Word Korobu, Meaning “The Renunciation of Kirishitans’ Faith”) 国際基督教大学学報『アジア文化研究』 35号 (2009年3月30日発行) p.111 - p.123  ㊟ライセンスは≪CC BY-NC-ND≫ 重要箇所をそのまま引用させていただきました


時代時代によって言葉の使われ方は変化していきますが、"立っていたものが倒れる"=外圧を受けて信仰を放棄する、そしてそのことがやはり侮蔑的な意味合いを含んでいたのか、と思うと、英語圏の人が思うような「転んでも立ち上がれる!」と言ったポジティブな意味は含まれていないような気がします。が、とても英語らしい、素敵な解釈だなぁとは思うんですよ。確かにそこからの"再生"をスコセッシ監督は最も重要な要素として描いていましたから。ね。




ここで一つ、個人的に興味深いなぁと思ったのは、「棄教」や「背教」といった完全にバッサリと棄て去るという強烈で直接的なイメージを持つ言葉を使わず、日本人は"ころぶ"という比喩的な使い方をしていたという点です。ソフトな印象の言葉を使ってのどこか遠回しな言い方。ここに日本人らしさを感じてしまうのです。

日本語には"罵り言葉"が他言語に比べて少ないと言われていますが、そこにこのポイントがあるような気がしました。
イタリア語なんて罵倒語とか凄いものでした。サッカーの試合を皆で観ている時なんか特に!parolaccia(パロッチャ)というのですが罵り言葉が飛びに飛び交って、かーちゃんとか息子の彼女とかも一緒になって、私一人チョット何言ッテルカワカラナイ状態。覚えなくていいと言われましたけど、そもそも日本語に訳せない(笑)!

表面的には礼儀正しいまま、汚い言葉は用いらず、本音と建て前を巧みに使い分け、嫌味や皮肉を言うことででネガティブな感情を表現するところに、日本人らしさを感じるのです。閉鎖的な土地の中で、直接的な言い回しではなく「転び」と言うことで蔑みの気持ちを表していたのかもしれません。社会言語学とか勉強していると、きっとその辺り面白いのかもしれませんね。



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また、映画『沈黙』では、異文化地域において外の世界から持ち込まれた「言語」あるいはそこに付随する「概念」の間に生まれる差や違いについても触れられています。劇中、リーアム・ニーソン演じるフェレイラ神父の役割が正しくそれでした。

日本人には「主」の概念が伝わらない、という件です。彼が異国の地、日本で身を持って得た経験は、恐らく日本人の心を知るものであれば決して理解は難しくないと思います。歴史も習慣も異なる文化の中、同じ物事を異なる言語で全く同じように理解するということは容易いものではありません。


そこで私が思い出したのが、イスラム教の聖典クルアーン(コーラン)についてです。クルアーンは原則アラビア語以外への翻訳は許されていません

 


確かに、日本語版も含む数多くの言語で訳されてはいますが、それはあくまでも"注釈"という形。コーランはもともと口承を経てまとめられたものであり、「声に出して読むこと(読誦)」を意味したものでもあります。

観光地などのモスクに行くと、そこには中東やアフリカ、ヨーロッパ、アジアなど本当に様々な国の人々が集い、皆同じアラビア語で祈りを捧げているのを目にします。

どの国のムスリムも聖典を読むためにアラビア語を学んでおり、声に出して読誦することで、一つの言語で信仰を共有しているようにも思ったものです。そして、それは言語を一つに限ることでニュアンスの違いや元来の解釈から大きく逸れないための"リスク回避策"のようにも思えるのです。もっとも、仮に完璧な翻訳が可能だとしても、コーランの特徴であるあの韻を踏むような美しいアラビア語の響きは、他言語で決して再生出来るものではありませんしね。



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言葉の使い方ひとつにしても、たった一つの単語にしても、それが生まれた土地の歴史や使用されてきた背景が必ず存在します。それを異文化で使われている言語に訳したり当てはめたりすることは非常に難しい作業であり、時には誤訳や誤解を生むなどのリスクも起こるでしょう。

言葉を使うにあたっては壁や限界があることの怖さ、そして、逆にそれがあってこそ生まれる相互理解や歩み寄りなど。この『沈黙』という映画ではそういった部分も、宣教師側と日本側の双方から丁寧に描かれていると思いました。



というわけで。
今回は『沈黙 - サイレンス -』を観て思ったこと、【言語】についてでした。次回はこの映画で最も大きなテーマだった【宗教】についてをupしたいと思います。




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『ハクソー・リッジ』 (2016/オーストラリア、アメリカ)

   ↑  2017/08/08 (火)  カテゴリー: シリアス、社会派





Hacksaw Ridge [Blu-ray]


●原題:HACKSAW RIDGE
●監督:メル・ギブソン
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、サム・ワーシントン、ルーク・ブレイシー、テリーサ・パーマー、ヒューゴ・ウィーヴィング、ヴィンス・ヴォーン、ルーク・ペグラー、ニコ・コルテス、ゴラン・D・クルート、リチャード・ロクスバーグ、リチャード・パイロス、ライアン・コア、ロバート・モーガン 他
●アメリカの田舎町で育ったデズモンド・ドスは、看護師のドロシーと恋に落ちるも、激化する第2次世界大戦に心を痛め、衛生兵になるべく陸軍に志願する。しかし基地での訓練で銃に触れることを拒絶し、上官や他の兵士たちから執拗ないやがらせを受けるようになる。それでも決して信念を曲げないデズモンド。とうとう軍法会議にかけられてしまうが、ついには彼の主張が認められ、晴れて衛生兵として戦場に立つことを許可される。こうして日本軍との激戦の地、沖縄の前田高地、通称ハクソー・リッジ(のこぎり崖)へと赴くデズモンドだったが・・・。





や~、一度目に観た時は、そりゃもうモヤモヤしましてねぇ!


真珠湾攻撃にショックを受けた主人公デズモンド・ドスが「僕だって男だ!戦場へ行って役に立ちたい!衛生兵として仲間を助けるんだ!」と入隊するのだけれど、配属されたところが(よりによって)ライフル部隊だったにもかかわらず「信仰があるから銃は持ちません!練習もしません!人殺しはしません!」と主張しまくるわけです。

「え、じゃお前何のために戦争に行くわけ?」と部隊の仲間や上司から非難轟々大ブーイングの中、なんとか「衛生兵」となって、激戦地沖縄の前田高地(ハクソー・リッジ)での戦闘に加わることに。目の前で肉片が飛び交う壮絶な白兵戦の中、ドスは武器を一つも携帯せずになんと75名ほどの兵士を救出(その中には日本兵も)し、「良心的兵役拒否者」としてアメリカ史上初めての名誉勲章が授与されることになる・・・・・なんて、一体どういう人なんだ??




うーん。「銃は持ちません」「戦争には参加したいけれど、人を殺したくありません」という主人公の主張は、結局自分が敵兵日本軍に銃口を向けられた時に仲間の"援護"で助けられるわけで、それって"自らの手は汚さずに他人に殺しをさせている"という点で同罪だと思うんだけどなぁ、とか、「他の人は殺しをやって、私は助けます」と葛藤や躊躇なく言えるところにビックリするんだけどなぁ、とか、宗教云々以前の問題として「集団行動の中で我儘を言って和を乱してはいけません」的な日本人の私にとって、同僚たちに迷惑かけまくりのゴーイングマイウェイの主張・行動にはビックリさせらるんだよなぁ、とか。

こういった疑問や消化できない部分がジャンジャン出てくるんですよ。
どうしてそうなる?なんでそう思う?どうやったらそんな行動ができるんだ!?と。




が、二度目にもう一度この物語を辿った時に気づいたのが、『ハクソー・リッジ』という映画は"戦争映画"などではなくて、"信仰心"というものを強烈に描いた映画だったのだなぁと気が付きました。

「皆は殺すけれど、僕は救いたい」という、普通ではとても考えられないこの狂気と純粋さ。 「こんなに人を助けたデズモンド・ドスはアメリカの英雄なんだよ!」といった単純なヒーロー物語でもなく、「沖縄での高田高地での戦いは凄惨極まりない酷いものだったんだよ、戦争はよくないよ!」という反戦映画でもないのです(それを期待してもいけない)。







聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの【セブンスデー・アドベンチスト教会】(Seventh-day Adventist Church)
この宗派の教区で育ったデズモント・ドスが、「汝殺すことなかれ」の教えを信じて信じて信じて信じて信念を突き通してとった行動が「武器は持たない。人殺しはしない(キッパリ!)」だったわけです。

だから、私がいくら「ドスの考え方ってモヤモヤするわー」と疑問を持ったって何の意味もないんですね。だってそれが彼の信仰心なのですから。ドスの核となる信念であり、確信を持った生き方。この辺、メル・ギブソン監督、有無を言わせません。



同じキリスト教の中でも、教えや主義・信仰形態などが異なるという理由から厳しく区別・非難され、保守系キリスト教徒からも異端扱いされてきたセブンスデー・アドベンチスト教会。軍隊の中でのドスもほとんど常軌を逸した人物として、ずっと周囲の人々に非難されていました。が、そんな彼の行動は、本来なら戦場に置き去りにされ失われていく運命だったはずの人々の命を救い、一転してそれは前代未聞の偉業として讃えられる存在となったのです。


つまり、カトリック教徒(しかも超保守的な伝統主義)というバックボーンを持ち、戦争や暴力の中に、ある種の人間が持つ"信仰心"というものを常に描いてきたメル・ギブソンにとっては、ドスの行為を宗教的な「奇蹟」として捉え、戦場における「英雄」と同じものとして描きたかったのだろうなと感じました。


ドスは繊細でピュアな人間なのだと思います。
神の御心に従い、神の教えに忠実な彼の姿を見て、そのベクトルが「人を救うこと」にあることにホッとします。赦されること、見守られていること、共に分かち合うこと。宗教や信仰を持つということは、ドスのように強い人間を時に生み出すのかもしれません。その"強さ"が逆のベクトルとなる狂気にも似た怖さも、勿論ありますが。


ムスリムやカトリックの友人らが心の底から神様という存在を信じている・・・・そんな面を垣間見た時に感じる「私にはきっと永遠に入り込めない領域」つまり、彼らの"信仰心"に触れた時と同じような気持ちに、この映画はさせるのです。複雑な思い、ではありますね。







そうそう。
宗教云々は置いておいて『ハクソー・リッジ』を観てどうしても書きたかったこと!

Hacksaw-Ridge05.jpg
「お前はいつ死んだんだ?妖怪か!」とか「お前は先住民だな!」とか、新人たちを鍛えまくる第77歩兵師団のハウエル鬼軍曹。演じたヴィンス・ヴォーン、味があってよかったですねぇ。入隊当初こそドスを罵倒しまくって追い出しにかかろうとまでするわけですが、次第にドスの理解者として彼をバックアップしてくれるように。その大きな存在感が大好きでした。

ドスと同じ隊に所属する仲間たちのキャラも立ちまくりで、あまり知らないオーストラリア出身の俳優が多かったのですが、特に"グール(妖怪)"役を演じたゴラン・D・クルート(Goran D. Kleut)なんてもう「アダムスファミリーの再来か!?」って小躍りしたくなるくらい。素敵な俳優陣の発見が嬉しい作品でもありました。







て。

※これ以降は、映画『ハクソー・リッジ』のラストに触れる部分があります。
未見の方や、今後鑑賞予定の方はご注意ください。


  ↓      ↓      ↓



では最後に、ライターでノベライザーの相田冬二さんが『ハクソ-・リッジ』のプログラムに寄稿された「歴史を見つめ、伝説を語る映画作家・メル・ギブソン」の中で心に残るものがありましたので、ここで一部分を引用させていただきたく思います。

デズモンド少年は、弟をレンガで殴ってしまい、このトラウマが武器を放棄する契機にもなるが、彼が初めて人を救う歓びを知るエピソードで、レンガは車を持ち上げる道具となる。また、弟をレンガで倒した直後、デズモンドの父トムはベルトで息子を鞭打とうとするが、そのベルトは、前述したエピソードで傷ついた者を止血する役割を果たす。誰かの生命を奪ったり、痛めつけたりするかもしれないレンガやベルトが、同時に、人間を救う可能性を秘めていること。
発行権者:(株)キノフィルムズ 2017年6月24日


そう!これを読んだ時、私の心にはあるシーンが焼き付いていることを思い出しました。
「決して武器は持たない」と主張していたドスが、ある瞬間に意を決してしてライフルを手にしたのです。人の命を奪うはずの物が、その時人の命を救うものになるとは。

そして、兵舎にいた時は安息日のトレーニングも拒否していたドスが、二度目のハクソー・リッジで「命を救いたい」という決意のもと安息日に再び戦場へと戻るシーン。

『沈黙 -サイレンス-』では、沈黙したままの神への問いかけの中で苦悩したアンドリュー・ガーフィールドが、『ハクソー・リッジ』のラスト、安息日にもかかわらず(神の御心としても捉えたのかもしれませんが)、一人の意思を持った人間として行動を起こしたことに心揺さぶられるものがありました。



日本人として、この作品に思うことも。
浦添市のホームページへのリンクもこちらに残しておきたく思います。

『ハクソー・リッジ』の公開によせて
『ハクソー・リッジ』の向こう側 〜沖縄戦の記憶〜
『ハクソー・リッジ』〜作品の舞台をご案内します〜



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『ブラック・スキャンダル』 (2015/アメリカ) ※試写会レビュー 第2弾

   ↑  2016/02/03 (水)  カテゴリー: シリアス、社会派
 
●原題:BLACK MASS
●監督:スコット・クーパー
●出演:ジョニー・デップ、ジョエル・エドガートン、ベネディクト・カンバーバッチ、ロリー・コクレイン、ジェシー・プレモンス、ケヴィン・ベーコン 他
●1975年、サウスボストン。アイリッシュ系ギャングのボス、ジェームズ・バルジャーは、イタリア系マフィアと激しい抗争を繰り広げていた。一方、弟のビリーは州の有力政治家として活躍していた。そこに、バルジャーの幼なじみジョン・コノリーがFBI捜査官となって戻ってきた。折しもFBIはイタリア系マフィアの掃討を目標に掲げており、功名心にはやるコノリーは、バルジャーにある提案を持ちかけるのだが・・・。





顔を白塗りにしたり、珍妙なコスチュームなんかで観る者を煙に巻く演技を連発してきたジョニー・デップが、久々に本領発揮!

彼が時折見せるデリケートで感傷的な表情。そしてそのすぐ裏に見え隠れする破壊的な狂暴性。ハゲ頭で冷酷なブルーアイズ。「こんなジョニデを見たかった!」という欲求を存分に満たしてくれる映画です。

最初から最後まで首尾一貫、不穏な空気が流れまくり。特に、皆裏切ることがわかっていて話が進むので虚しさが余計に募るという重々しさに加え、「くるぞくるぞー」というジョニデお得意の緊張感溢れるバイオレンスが要所要所で炸裂するので、ドス黒い雰囲気が充満している映画でもあります。実話ですからね、重い・・・・。



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この映画を観賞し始めてからすぐ、なんだか既視感のようなものを感じました。「スコセッシ作品?あれイーストウッド映画かな?」とか。そう、よく考えてみたら『ブラック・スキャンダル』の舞台は米国ボストンなんですね。

アメリカ建国からの古い歴史を持つ街ボストン。
その南部(South Boston)通称サウシー地区はアイルランド系移民が多く暮らす界隈。ここがこの映画の舞台です。

もともとマフィアやギャングが生まれた背景には、カトリックの国からやってきたアイルランド系やイタリア系といった移民たちの貧しい生活(低賃金労働や宗教差別)がありました。街の世話役として貧しい庶民の就職などサポートをする一方、そこで起こった犯罪は「Code of Silence(沈黙の掟)」で覆い隠され、義理と忠義の帝国が築き上げられることに。

やがて彼らのパワーは政治やビジネスの世界奥深くまで入り込んでいき、そのラインの区別はつかなくなっていくのです。親子代々ギャングとか、兄はギャングで弟は政治家とか。スゴイ世界ですね。


たとえばね、以下は4作品とも全てボストンを舞台にした映画です。

『ミスティック・リバー』

『ディパーテッド』

『ゴーン・ベイビー・ゴーン』

『ザ・タウン』



ベン・アフレックが脚本・監督・主演を務めた『ザ・タウン』の舞台はボストン北東部に位置する犯罪多発地域チャールズ・タウン。さらにベンの弟ケイシー・アフレックが主演の『ゴーン・ベイビー・ゴーン』はサウシーに隣接するドーチェスター地区が舞台。そして、この『ゴーン~』の原作者デニス・ルヘインによる『ミスティック・リバー』はボストン南部の物語として設定されています。また、『ディパーテッド』に登場するギャングのボス(ジャック・ニコルソン)は本作『ブラック・スキャンダル』のジミー・バルジャーがモデル。

"犯罪物"というジャンルだからなのか、或いは古い街並みや訛りという言葉から醸し出されるものなのか、ボストンを舞台にした映画作品の雰囲気はどれも独特の重々しさがあります。

権力の腐敗、汚職、欲望の絡み合う複雑な人間関係。表からは見えない人間の不道徳な部分、陰惨な面が描き出される映画が幾度も作られ続けるのは、やはり人間、こういった後ろ暗い部分に惹かれてしまうところがあるのかもしれませんね。


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で、ますます映画の話から飛んでしまうのですが、そんなボストンを舞台にした映画を"パロディ"にした動画があります。

SNL出身でコメディアンのセス・マイヤーズが司会を務める「レイト・ナイト・ウィズ・セス・マイヤーズ」で放映したもので、ボストンのアクセントから犯罪映画の「あるある」的な"お約束の展開"に至るまでを茶化したフェイク映画の予告編です。

ボストン訛りをよく表す[a:]の発音で、「Boston(ボストン)」を「Baaston(バーストン)」と言ったり、"park the car in Harvard yard."というボストンアクセントを表現する有名なフレーズも"お約束"で決めてきます!"R"の音を発音しない話し方(parkはpahk(パーク)、carはkah(カー))は、よくRの音に弱いと言われる日本人の英語に近いので「日本人には真似しやすい!」とまで言われています(笑)。イギリス英語に近い感じがするのは、やはりこの地域が出来上がってきた歴史が大きいのかな。






さてさて。話は逸れに逸れましたが、やっと『ブラック・スキャンダル』について。

ギャングとFBIが手を組んだ“アメリカ史上最悪のスキャンダル”とも言われ、ウサマ・ビンラディンに次ぐ最重要指名手配者だったとまで言われた伝説のギャング、ジェームズ・“ホワイティ”・バルジャー。

ということで、まぁこれはショッキングでセンセーショナルな事件ではあるんでしょう。実際、2011年6月、81歳にしてジミーが御用となった時、アメリカでは臨時ニュースとして速報で伝えられ、メディアは暫くこの話題でもちきりだったそうですから。

が、これを映画にして、実際に地元ギャングの影響を受けるような生活をしたことのない日本人の私が観たところではですね「はぁそうなんですか・・・」としか言いようがないんです。だってFBIだったらこれくらいのことしてるんだろうな、という米国ドラマの観過ぎなのかも知れませんが大した驚きもなく。なんでしょう【ザ!世界仰天ニュース】なんかを見て「へぇー」と言う感じなんですよ。【奇跡体験!アンビリバボー】でもいいんですけど。



極悪人の心情や事件の全貌に迫った!!という新たな試みらしいものも特になく、事実を客観的に積み上げていくのであれば「仰天ニュース」なんかの再現映像でもいいような気がするし。ジョニデが殺気立った狂犬病みたいなキレッキレの役柄がピッタリで、それを演じてみたい、見てみたいという気持ちも解らないではないですが。

曲者俳優であるケビン・ベーコンがFBIの上司役だったので、ここで何かドカン!と展開があるのかなと思いきや、法の番人としての意識が非常に高い不正に厳しい、ただの人だったので逆にビックリした。何もないのか!(笑)


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しかもですよ、私は今日、これだけは言いたい。
ベネディクト・カンバーバッチ、ほとんど絡まないんですよ!
これこそがアンビリーバボー(涙)。。。

blackmass100.jpg
↑日本での宣伝を見ると、ポスターもそうですが"アンサンブルキャスト"っぽく、カンバーバッチがででーん!と出ているじゃないですか。私はFBIの汚職事件には全然興味がなくて「カンバーバッチが出ている!」という下心?だけでこの映画の試写会に元気よく出向いて行ったくらいだったものでショックも倍増。

「彼(ウィリアム・バルジャー)の話も映画化できるほどの内容だが、今作ではほとんど描いていない。兄が犯罪組織のトップで、弟は政界のトップにいるなんて、まさにシェイクスピアの舞台劇のようだが、彼らがお互いを助け合ったかはわからない。人々が兄ジェームズに恐怖を感じて弟のウィリアムの選挙などで批判(攻撃)することを恐れていたことや、一方でウィリアムが上院議会の議長を務めていたため、警官や捜査官がジェームズを捕まえることをちゅうちょしたことなどの証拠もない。ただ、そんな環境を想像しただけでも怖いね」と明かした。
ジョー・バーリンジャー監督インタビュー:最重要指名手配のギャングのボス、ジェームズ・J・バルジャーを描いたドキュメンタリーとは?【シネマトゥデイ】

「2人(*注)が互いの立場をどう守り、フォローしあっているかについてはあえて描いていない。そこには触れず、2人が強い兄弟愛で結ばれていることだけを示して、あとは観客の想像に任せることにしたんだ」
(*注)ジョニー・デップ演じる凶悪犯ジミー・バルジャーと、ベネディクト・カンバーバッチ演じる政治家ビリー・バルジャー
ベネディクト・カンバーバッチ インタビュー:映画『ブラックスキャンダル』公式サイト Pproduction Notesより


描いてほしかった!ここを見せて欲しかった!
カンバーバッチのどす黒い腹の奥底を見てみたかった~
(・・・あ、でもここだけの話、絶大な権力者だし、ご存命だし、ヘンなことは言えませんものね・・・・)


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兄は20世紀を代表する凶悪犯罪のお尋ね者で、弟は絶大な権力を揮った民主党の大物上院議員だなんて、なんでしょう、このバルジャー兄弟の凄まじいほどのコントラスト
アメリカってスゴイ国ですねぇ。

ウィリアム・バルジャー。
1960年から40年以上に渡りマサチューセッツ州の政界で支配的な力を揮ってきた政治家。1978年以降、20年近くマサチューセッツ州議会上院議長を務め(歴代最長期間)、その後はマサチューセッツ州立大学の総裁職に。彼は70年代アメリカで公民権運動やアファーマティブ・アクション(差別是正措置)といった人種差別問題の中で「差別撤廃に向けたバス通学」(各人種の生徒数の均衡を保つよう、強制的に通学させるのが目的)に真っ向から反対し、国家の介入・干渉に対して抵抗を示して支持された政治家でもあります。



そして、『ブラック・スキャンダル』の映画でもそうですが、実際に彼が兄とどのように関わったのか?という証拠や証言というのは一切あがっていないと言われています。

ただ、ニュースや新聞記事などを読むと、逃亡中の兄ジミーと電話で会話したことを大審院で認めながらも「兄の容疑は冤罪だと信じたい」と議会委員会で証言したり、また捜査当局へは「兄が見つかるような協力はしない」と捜査への協力を拒むなど、実はこの映画の中で最もダークなのは弟ビリーなのではないだろうか!?と思ってしまうほど。


「誰にも見られなければ、なかったのと同じことだ」
映画の中で、ジミー・バルジャーが息子に言い聞かせるセリフですが、この教え、実はビリーも実践していたのでは・・・。確実に、誰にも何にも証言も証拠もとられていないのですから。彼の本当の政治人生、事実を知ったらビリーの人生よりも黒い闇が広がっていたりして。いやいや、まさかまさか、そんなそんな・・・


そして、この映画。エンドロールが逸品です。
ここに出てくる実録映像が、わたし一番怖かったです。背筋が凍りました。
そう、この映画で一番不気味で恐怖を感じたのは、あの『セブン』のタイトルデザイナー、カイル・クーパーによるエンドクレジットかもしれません。
・・・後味の悪さとともにゾワゾワっときますよ。








まぁそれにしても、よく世の親御さんたちは「どんなことでもいいから、好きな事、得意な事を見つけて一番になりなさい」とか言いますけれど、バルジャー家のお母ちゃんは一体どんな育て方をしたんでしょう!? 息子たちは本当に"その世界"で一番になりましたよ。うーん、そんな子育て論の方がじわじわと気になります。ほんと、すごい兄弟だ・・・・



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  2016/02/03 | Comment (2) | Trackback (1) | HOME | ↑ ページ先頭へ ↑ | edit

『少女ヘジャル』 (2001/トルコ)

   ↑  2015/09/08 (火)  カテゴリー: シリアス、社会派




少女ヘジャル [DVD]



●原題:Hejar/Büyük adam küçük ask
●監督、製作 、脚本: ハンダン・イペクチ
●出演: シュクラン・ギュンギョル、ディラン・エルチェティン、フュスン・デミレル 他
●一線を退き、孤独な生活を送る元判事ルファトが住むアパートが武装した警官に襲撃され、隣人一家が皆殺しにされた。たった一人生き残ったクルド人少女ヘジャルは行き場もなくルファトの部屋の前にたたずむ。クルド語しか話さないヘジャルとルファトの間に立って橋渡しをしてくれたのは、身分を隠し、トルコ人として偽って生きてきた家政婦のサキネだった。ルファトは、サキネとヘジャルにクルド語で話すのを禁じるのだったが・・・。トルコ国内で公開5ヵ月後に上映禁止となったものの、アカデミー賞外国語映画賞トルコ代表となった作品。




※この記事は、2013年のレビュー記事を再見・加筆したものです。
久しぶりにいい映画にあたりました。嬉しいなぁ。
で、ちょっと思い出したことを。

かの地に滞在していた頃、クルドの話が人々の口にのぼるたびに"良いクルド人""悪いクルド人"という単語をよく耳にしたものでした。貧しくとも問題を起こさず国内の政策に従い生きているクルディスタンと、クルド労働者党(PKK)武装組織に代表されるような反政府意識のあるクルディスタン。

そう、私にとってクルド問題は遠い国の遠い話ではないのです。
というのも、古い友人が"良い"側のクルド系出身だったから。軍隊でゲリラ部隊と銃を向け合っていた人間にとって、"悪い"側のクルディスタンは憎むべき存在でしかなく、話題に上るときは嫌悪の感情しかなかったように思います。

でも"悪いクルド人"なんて本当にいるのでしょうか。
誰の側から見た言い方なのでしょうか。







国全体が【クルド文化】や【クルド人】という存在を抑圧していた中、この作品は、羽交い絞めにされた力を解きほぐすような一筋の柔らかな光。私にはそう感じられました。

国家を持たない民として、最愛の家族まで失ってしまった幼いヘジャル。
だからこそ、その小さな体いっぱいに力の限りに叫ぶクルド語を誰も止められはしないのです。小さな少女の正直で痛烈なその思いは、観る側の心を最後まで揺さぶり続けます。

そして、クルド問題をトルコ国内で初めて取り上げ、この映画を製作したのが"女性監督"だったということも興味深いもの。

アラブ・イスラム世界の中では最も西欧文化にも近く、近代化された国家とはいえ、イスラーム世界ではほぼ見られない「自転車に乗る女性(しかも老齢!!)」をチャーミングに演出する軽やかさを見て、私はこの作品をいっぺんで好きになってしまいました。車を運転する女性のことを、地方ではまだあまり良く思われないほどなのですから・・・。



主人公の老人ルファトとヘジャルという2人を取り巻く人々の、その小さなドラマが丁寧に綴られていることにも温かみを感じます。家政婦サキネの人生、未亡人ミュゼェイェンの都会に暮らす孤独、そしてクルド人としての苦悩を抱えるエブドゥ。

たとえ政治的・民族的問題を抜きにして観たとしても、この作品の優しくも力強い印象はまったく変わりません。この映画、もっともっと広く知られてほしいなぁ。






むかし、クルド出身の人のお店に入って値段の交渉をしたことがありました。

明らかに「外国人」の私が友人から教えてもらったクルド語で話しかけたところ、「こんなことがあるなんてなぁ!」と店主のおじさんに大笑いされ、可愛らしい小皿セットのおまけを頂いてしまいました。表情がぱぁっと明るくなったあの店主の顔が忘れられません。この映画を観て、そんなことを懐かしく思い出しました。



※この映画の時代背景について 「少女ヘジャル」公式サイトより一部抜粋

トルコ国内でクルド人問題が最も激しかった頃の1998年、クルド人の存在そのものが拒否され、クルド語も話せなかった時期がこの映画の舞台となっています。しかし、現在ではクルドの民俗音楽のCDが発売されたり、クルド語による芝居の上演、一部の学校でクルド語教育が行われるようになっているとのこと。

軍部の影響力や、EU・米国に向けた政治的立場や思惑、国内世論など様々な政治的要因が絡み合って状況も変化しているようですね。


 Türkiye’nin ilk Kürtçe karnelerini aldılar【ZAMAN】
Türkiye’nin ilk Kürtçe karnelerini aldılar【ZAMAN】
トルコ初のクルド語小学校で、初のクルド語通知表を受け取る
(2015年1月24日付/ザマン紙)




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  2015/09/08 | Comment (2) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ ↑ | edit