お散歩シネマ 映画の世界へ出かけよう!!映画の数だけ、もっと世界は面白くなる! 

このページの記事目次 (新しい記事より順に表示)

total 116 pages  次のページ →  


『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その3【文化】について

   ↑  2017/10/13 (金)  カテゴリー: シリアス、社会派







沈黙 - サイレンス - [Blu-ray]


●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他




マーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画『沈黙 - サイレンス -』。
前々回は【言語】について、前回は【宗教】について、自分の中で興味深かった点を書き残してきましたが、今回は【文化】についてを最後にまとめてみようと思います。







【文化】 日本には宗教が根付かない?

『沈黙 - サイレンス -』という映画で何が一番興味深かったかといえばですね、日本にキリスト教が根付かなかったという【日本泥沼論】。こーれーは面白かった!

監督したスコセッシ監督は、「日本人が怖がるのは"地震、雷、火事、親父"」と仰っていましたが、確かにこれは当たらずと雖も遠からず。日本人が恐れるものとして"神様"が入っていませんものね。むかしは「嘘をつくとエンマさまに舌を抜かれるぞー!」なんて子どもたちを怖がらせていたようですが一神教の神様とは違いますし、海の神・山の神・トイレにも神様がいるというくらい、日本には"八百万の神"がいらっしゃると言われてきました。

沈黙 (新潮文庫)


「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたよりも、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた」

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」

「日本人は人間を美化したり拡張したりしたものを神とよぶ。人間と同じ存在を神とよぶ。だがそれは教会の神ではない

遠藤周作『沈黙』(新潮社; 改版、1981年) 189~193 頁 本文よりフェレイラのセリフのみ抜粋


これらはスコッセッシ版の映画の中でリーアム・ニーソンが演じたクリストヴァン・フェレイラの、原作「沈黙」の中でのセリフです。

私がこの映画を観ていて感じたのは、今でいうところの「異文化世界に進出する場合はもっと理解力・適応力・柔軟性を持ったグローバルな人材が必要だったのだろうなぁ」ということでもありました。そして、他の世界では通用しない自分たちだけの成功に依存していては新しい道は開けないのだなぁと。そのまま現代にも通じるテーマですね。当時のフェレイラのショックや如何に・・・・

そして、フェレイラのセリフを通して表現された、この「日本は全ての物を根ごと腐らせてしまう沼地」。これって一体どういうことなのでしょうか。





①外来文化を吸収してきた国、日本

日本という国には、多種多様な外来文化を受容してきた歴史があります。
大陸文化から仏教が伝来した飛鳥・奈良時代。南蛮貿易が盛んになって西欧文化とキリスト教の思想がやってきた戦国・安土桃山時代。富国強兵・脱亜入欧・文明開化の明治時代。戦日本が目指したのは物質豊かな国アメリカの文化でした。

そういった中において、思想の問題として「一神教の概念」はどうして日本の中で広く完全に定着しなかったのでしょう。

国民の文明史 (PHP文庫)



京都大学名誉教授で国際政治学者であり日本歴史学者でもある中西輝政先生の著書「国民の文明史」の中に、これに繋がると思われる視点、見解が述べられていますので、ここで是非ご紹介させていただきたく思います。

日本には北の海を越え、あるいは大陸や半島から、また黒潮に乗って外からさまざまなものが次から次へとやってきて、日本はそれを上手に、そしてきわめて独特の方法で受け入れていたのである。そのため、文明の体系が全体としてさまざまな層が重なる、いわゆる「重層文明」となった。
しかしそれは、いつも「文化」がやってくるだけで、一緒に征服者が上陸してくることはなかった。これが、日本の文明史にきわめて独特な、おそらく世界に類例のない本質を与えることになった。つまり、外来文化や文明に対する驚くほどの受容性の高さの原因はここにあったのである。また、この適度なほどの受容性の高さ――何でも「まず受け入れる」ため、前述の「換骨奪胎」の文明機能が、やはり他に類例がないほど深く身についたわけである。言い換えれば、日本文明には、まずとりあえず受け入れるが、自らの本質に合わないものは結局、はね返す、という、確固たる「外柔内剛」の構造が大きな特質としてあるのである。

中西輝政『国民の文明史』(扶桑社,2003年) 第七章 世界の中の日本文明 比較日本文明論Ⅰ 重層文明と更地文明406-407頁


敵対するもの、支配されるもの、強制されるもの(ヨーロッパのカトリック教会やイエズス会、スペイン・ポルトガルの思惑は抜きにして)ではなかったため、キリスト教の教えを得た者は受け入れていったのでしょう。

中西先生は同著において"庶民性こそが日本文化の主人公であった"とも指摘されています。多数の日本人がキリスト教そのものを受容せずに(←変容はさせて)きたその庶民性とは具体的に一体どのようなものなのか、改めて少し考えてみようと思います。





②日本人の「自然」観

silence002a.jpg
元イエズス会司祭で日本管区の管区長代理だったクリストヴァン・フェレイラ。彼は長崎にて棄教した後に「沢野忠庵」の名を与えられ、その後、反キリスト教書として口述したとされる『顕疑録』を残しています。ここに大変興味深い一節がありましたので、それを引用された慶應義塾大学 法学部(日吉)准教授でスペイン文献学・比較思想史専門の折井善果先生の研究論文から一部ご紹介させていただこうと思います。

そこではキリスト教における神による天地創造について、以下のように述べられている。

…然ヲ天地ノ作者、万事ノ主一叢アリト教ル處、偏二鬼利志端宗旨ヲ立謀也。先天地、作ノ物ニアラザルハ、四季転傳、者日月星辰、東西南北。順環不易、是則自然之理也。

天地万物が神によって創られたものではないことは、四季や天体の移り変わりが「自然之理」であることからわかる、とフェレイラ(忠庵)は言う。これはポルトガル出身の第一級の知識人における、創造主を頂点とする神的秩序から、汎神論的な自然主義への転換の瞬間であるという意味において重要である。

折井善果〈研究論文6〉「キリシタン文学における「自然」――スペイン語原典における「偶然(acaso)」の翻訳を手がかりに――」 (学会誌 『比較思想研究』、2005年、第32号)91~100頁


唯一神が万物を創造したというキリスト教観と、豊かさと過酷さが同居する自然をあるがままに受け入れ、自然そのものが摂理という日本人の自然観。

ここで重要なキーワードになるのが、日本語の「自然」という言葉です。
「自然(しぜん)」は英語の「Nature」の訳語として知られていますが、もともとは「自然(じねん)」という仏教的な思想で「自ら然(しか)る」→おのずとそうなる、あるがままという状態のことを表しています。

英語圏での「Nature」という概念は、自然は神が人間のために作られたものであって人間が管理しコントロールすることができるものだというのに対し、日本人は"人間も自然の中の一つ"として捉えてきました。例えば、同じ山に登る・頂上を極めるという言い方でも"西欧的"な言い方では「エベレストを征服する」と言いますが、"東洋的"な山岳信仰の場合、気高く神に近い場所として謙虚な気持ちで「登拝」と表現されます。

大自然に対する畏怖の念を持ち、四季の移ろいや自然現象に美を見出してきた日本人は、その精神を身近なところで大切にしてきました。俳句には季語を入れることで心象風景をより大きく広げることができる・・・・というのは小学校の国語でも習うことですね!

  朝顔に 釣瓶とられて もらひ水   加賀千代女
  夏草や 兵どもが 夢の跡      松尾芭蕉


虫の声、羽音、打ち寄せる波、遠雷の響き、降り続く雨音。スコセッシ版映画『沈黙』のオープニングとエンドロールでは自然と一体化し、自然の中に身を置いている日本人の精神性が、この映画の中で最も強く切り取られているような気がします。




line.png


それでですね、私も日本人の一人としてこの宗教観についてちょっと考えてみました。

a-horz.jpg
私事で大変恐縮ですが、私の母系実家は九州にある浄土真宗のお寺さんであり、父系実家の方は日系アメリカ人としてのキリスト教プロテスタント。私自身もプロテスタントの教会幼稚園に通い(お遊戯会でマリア様をやった!)ましたが、その後は日本の浄土宗系列の学校に通ってお釈迦様のお話が大好きな高校生(お経もあげられます)を経て、その後はイスラム圏生活でイスラム教やコーランの勉強もしてきました(楽しかった!)

で、私はイエスもブッダもアッラーの道をも通って参りましたが、結局のところ、どの宗教へも属していないのです。なぜなのか?私も"泥沼"だからなのか(笑)!?色々考えてみましたが、一つ思い当たることがありました。


食事の前に言う「いただきます」という言葉がありますよね。
私はどこの国にいた時でも、食事の前には必ず手を合わせてこの言葉を言っていました。信仰心とかからではないですよ。そんなものを意識したこともありませんでした。小さい頃から「食事の前には"いただきます"を言いましょう」ってずっと言われてきたじゃないですか。黙って食べるのは何だか気が引けます。無意識からです。そのため、私は日本語で「いただきます」と必ず言っていました。

そして、これは本当に面白いなと思ったことなのですが、どの国でもそれを見ていた周りの友人たちは「オォ、これぞ日本人だ!」「仏教だ!」「いいことだ!」→なぜか「真似したい!」となり、みんなで手を合わせて「ITADAKIMASU!」と言うようになってしまったものでした。ムスリムの場合は食事前に「ビスミッラー(神の御名において)」と言うのですが、なぜか「ビスミッラー、イタダキマス」になってしまいました(笑)。

で、その「いただきます」の言葉の先に、私の思いはどこにあったのか?と考えてみたのです。先述したとおり、もちろん"神様"に対して言っていたのではありません。私が口にしていた「いただきます」は、食事を作ってくれた人、用意してくれた人、命をくれた生き物、作物を育ててくれた自然の恵み。それらに対して私は手を合わせ、感謝の気持ちで「いただきます」を言っていたのだと思うのです。どの信仰においても皆が感謝の言葉を口にする時はいつも「神様」に対してでした。神の恵みとか、神の御心とか。でも、私は神様というものに感謝する気持ちにはどうしてもなれませんでした。私の心から感謝する相手は神様じゃないんだ、そう思ったのです。それで私の心の中には、どの宗教に対しても信仰心というものは根付かなかったのです。

無意識のうちに、私は「人間も自然の中の一つ」という世界観の中にいたのかもしれません。





③受容、変容、融合、土着化する文化


冒頭に記したフェレイラの台詞「根を腐らせる泥沼」という表現は、あくまでも外部から持ち込んできた側からの見方であり、それを受け取った側の日本は、スープにように全てを溶かし込んできたのではないかと私は思うのです。

たとえばそれは【Japanese rice-bowl】←ごはんと親和性のあるものを全て一緒に頂いてしまう【丼もの】のようなものなのかなぁと。今日はご飯系の話題が多いですが(笑)、でもゴハンに合うものを上手に取り入れ、美味しく頂いてきたのがきっと日本の文化なのでしょう。それも"有難く"いただいた、と思うのです。



当初、日本人の中には「キリスト教も仏教の宗派の一つだ」ととらえていた者が多かったのではないか?とする識者の見方も多くあります。言葉や文化の異なる中での理解の限界もあったでしょうし、"仏教化"した形でマリア観音を拝むことへの抵抗がなかったこと、また「死んだらパライソ(天国)に行ける」と映画の中でもロドリゴを困惑させていましたね。

きっと日本人にとって、海を越えてやってきたキリスト教は「ありがたい教え」だったのだと思います。

「私たちを救ってくださる」とわざわざ遠い外国から来てくださったパードレ様を尊ぶ日本人の姿。御恩と奉公という精神が、パードレ様を大事にする恩義に繋がり、殉教への道となった部分もあるかもしれません。「悪い子はいねがー!」や「嘘をついたら針千本」など、地獄の閻魔様や天罰を怖がる日本人は、大切なご先祖様も含めて来世での幸せを願い、死ねば天国に行けると信じていたのでしょう。

日本でのキリスト教は、カトリック教会の思惑とは別に"彼らの神様"からハイブリッド化していったように思えます。

「Deus(デウス)」という概念を「大日」「神」という日本語の漢字訳語に"置き換えた"時点で、すでに唯一神という概念は失われていたのかもしれません。しかし、遠藤周作がクリスチャンとしてのあるべき姿を日本人の立場から模索し続けたように、 受け入れ、融合させ、その沼地に蓮の花を咲かせてきたのが日本人の姿なのかもしれません。







参考文献、論文

ザビエルを連れてきた男 (新潮選書)

キリシタンの文学―殉教をうながす声 (平凡社選書 (181))

南蛮のバテレン (松田毅一著作全集)



カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容

日本の感性が世界を変える: 言語生態学的文明論 (新潮選書)





日埜 博司 『コリャード懺悔録(さんげろく)』ポルトガル語全訳注 : 解題としてのディエゴ・コリャード略伝,『懺悔録』研究史,原著概要および構成に関する若干の疑問,等, 流通経済大学流通情報学部紀要, 2013-10, 18巻;1号:127 - 156頁


鈴木 元子『ホロコースト、隠れユダヤ教徒、隠れ切支丹:ソールベローと遠藤周作の文学』, 静岡文化芸術大学研究紀要, 2017-03-31, 17巻:1-14頁



■この記事に関連する映画制作国、地域 : アメリカ映画 

FC2共有テーマ : 映画感想 (ジャンル : 映画

  2017/10/13 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ ↑ | edit

『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その2【宗教】について

   ↑  2017/09/16 (土)  カテゴリー: シリアス、社会派






沈黙 - サイレンス - [Blu-ray]


●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他




はい、こんばんは!
前記事では、マーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画『沈黙 - サイレンス -』の【言語】【宗教】【文化】3点セットのうち、個人的に興味深かった【言語】についてまとめてみましたが、今回は【宗教】について書き残しておこうと思います。


いやー、しかしですね、このブログを立ち上げた時から漠然と思っていたことなんですけれど、「映画の世界へ出かけよう!」と副題を付けただけあって、私はやっぱり映画を観た時にそこに描かれた物語の背景、社会や生活や歴史などを知ることによって、もっと映画の世界を楽しみたいのだなぁと、自分自身のことながら今回つくづく思いました。映画を一つ一つ観るたびに、知らないことって沢山あるのだなぁ、本当に自分はものを知らないんだなぁ、世界はとてつもなく広いのだなぁ、といやがうえにも思うようになりました。そして、それを教えてくれる映画って、本当にアリガタイものだなーとも思っています。








【宗教】 日本人 遠藤周作の原作小説「沈黙」

沈黙

深い河 (講談社文庫)

『沈黙』をめぐる短篇集



キリスト教を「着せられた洋服」「自分の体に合わない洋服」と感じていたという遠藤周作。彼の原作小説「沈黙」は、遠藤自身の幼い頃からのキリスト教徒としての在り方への疑問、カトリック教徒としての違和感が底辺に流れています。

そのため、「沈黙」の原作そのものが遠藤自身のカトリック教徒としての居場所探しであり、日本(もしくは東洋)独特の宗教観あるいは信仰心を融合させた新たなキリスト教像を生み出した物語なのだろうなと強く感じました。



①「人々の前で告白する」ことの重要性

私なんかからしますとね、もう、みんなの命がかかっているんだから踏んでおけばいいじゃんいいじゃん「形だけでイイ」「かすめるだけでもいい」って言ってるんだから踏んじゃった方が皆のためだよ!なんて思ってしまうわけですが、この"形だけ"というのが問題なんだろうなぁ。

新約聖書にある「マタイによる福音書」第10章26-33節には、福音宣教のため派遣される12人の弟子たちにイエスがその心得を説いたものが書かれています。

「人々の前で私の味方であると宣言する者を、私もまた天におられる父の御前で私の味方であると宣言する。しかし、人々の前で私を否む者を、私もまた天におられる父の御前で否むであろう。」

(マタイによる福音書10:32-33)



カトリック(聖書の解釈は教会の仕事)と、プロテスタント(聖書の解釈は個人)。

この映画を観た後、私は日本にあるそれぞれの教会の説教というものを色々読んでみたのですが、まずひとつは「私は主イエス・キリストを信じる者です」と人々の前で告白することが大事だから「踏絵を踏む=キリスト教徒ではないと宣言する」なんてトンデモナイ!という考え。そしてもう一方では「イエス様は弟子たちの弱さ・孤独・苦しみも知っていたし他の町へ逃げなさいとも仰っていた。主は我々の心の内にどんな時も共にいてくださるのです」という、約二通りほどの解釈を読みました。


その中でも、最も強烈かつ興味深かったのは東京基督教大学の教授だった小畑進牧師による「遠藤周作著小説『沈黙』論」

こ、これは秋の夜長の眠気も吹っ飛びます。
PDFで読むことができますので、映画を鑑賞された方は是非!

宗教とは常識的な人間の論理に対しては異常なものなのであり、神の主権を人間の情愛の中に曖昧にしたり、見失ってしまったりしては成り立たないものであることを銘記させられなけれななりません。
  (中略)
小説「沈黙」の人間へのもたれこみは、作者の軽い作品と通じて、その甘さにむせてしまうのです。



・・・そ、そうなのか。"神"というもの、"救い"というものに対する概念は、本物の聖書に基づいた宗教となると私が持つものなんかとこれほどに違うのか・・・と非常にビックリいたしました。遠藤周作の原作小説に漂う"ある種のナイーブさ"は見事なまでに木端微塵・・・・・





②遠藤周作のエキュメニズムと、日本的な「寄り添う神」「赦す神」 日本独自の寛容性を内包した信仰

拷問の末、無残に息絶えていく信徒たち。美しい天使が吹くラッパの音が鳴り響く、そんな輝かしい"殉教"を信じていたロドリゴは、壮絶な拷問を受け続ける信徒たちの姿に耐えられなくなっていきます。そして「なぜ、主は沈黙を続けるのか」と。


「それでよい。よいのだ。踏みなさい。お前の痛みは知っている。私は人々の痛みを分かつためこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ。お前の命は私と共にある。踏みなさい。」
●映画「沈黙-サイレンス-」 日本語字幕より

心のうちに響いてくるんですねぇ。"声"が。
自分が踏めば、転べば、多くの日本人キリシタンの命が救われるという、一人の人間としての良心の呵責。そしてそれを実行するにあたって圧倒的な自己肯定力として、イエスの存在が「ともに苦しむ」というものに変容していったのだろうと思うのです。

そして、このロドリゴの心の動きは、カトリックとプロテスタントの教会一致促進運動(エキュメニズム)を推進していたという遠藤周作自身の姿と重なるものがあります。



心の痛み、挫折、弱さ、絶望を通して、「怒り、正義、裁きの神」から「母なる神=慈母、慈しみ、慈悲、憐れみ、寄り添い」の存在へ。

これは母性的な「聖母マリア崇拝」に近いとも思いますが、「同伴者としてのイエス」とも言われ、置かれた状況にあわせて信仰を守る、形式に捉われない日本人の姿(善し悪しは別として)を強く感じさせるものです。そしてここから 「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」という遠藤周作の切実なる思いに辿りつくものだと思います。 

映画化にあたってマーティン・スコセッシ監督もインタビューでこのように述べています。

"要するに、権威的なアプローチで教えを説くのではなく、キリスト教の中の女性的な面をもって説くのが、日本で受け入れられるやり方ではなかったでしょうか。隠れキリシタンの人たちも、実はキリスト教のそういう面にひかれていたのではないかと思うのです。"






④キチジローと遠藤周作、弱き者を否定しないスコセッシ監督
NHK BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」
NHK BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」

これまでこの「沈黙」という小説は、遠藤独自の、日本人独特の宗教観を表した物語だと書いてきましたが、ボーンクリスチャンであるスコセッシ監督は、実はずっと以前からこの物語に共鳴していたのですね。

初めて「沈黙」を読んだスコセッシは大きな衝撃を受け、まるで彼個人に話しかけられたような気がした。「遠藤が本で提示したテーマは、私がとても若い時からずっと考えていたものです。私はこの年になっても、信仰や人間のありようについて考え、疑問を感じていますが、これらは遠藤の本が直接的に触れているテーマなんです」
 (中略)
スコセッシは書いている。「――ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼が知っている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」



イタリア系アメリカ人としてシシリー系移民が多く住むニューヨークの下町で育ち、カトリックの神学校に通って司祭になることを目指すも中退、その後は裏社会や暴力を描きながら信仰や罪、贖罪といった道徳や宗教的な テーマを通じて社会の暗部や人間精神の奥底をあぶり出していく作品を多く世に送り出してきたスコセッシ監督。

そして、「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を抱え、カトリック教徒でありながらカトリックに対して疑念を抱き続けていたという遠藤周作の葛藤。苦悩。



キチジローの言う「この世の中に、弱き者に生きる場はあるのか?」というロドリゴへの問いかけは、まさにスコセッシ監督、そして遠藤周作からのメッセージとなるのでしょう。苦悩や葛藤、迷いを持つ、そういった人間の弱さを包容できてこそ人生に意味があるということを。

また、スコセッシ監督は「あなたが、最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」という、弱いものに寄り添うことが大事だと説いた部分(マタイによる福音書25章31~40節)が好きだとも仰っていました。弱き者に手を差し伸べるとはどういうことなのか?本当の意味での献身とは?この映画の最も重要な部分に繋がる言葉だと思います。



line.png


余談ですが、この映画を観ていて思い出したのが、2003年のスウェーデン映画でイングマール・ベルイマン監督の『サラバンド』でした。

『サラバンド』 (2003/スウェーデン)

ベルイマン (Century Books―人と思想)



牧師の子でありながら、生涯ベルイマンが苦しみ、自問し続けたのは「神の不在」でした。
これを観た時にも書いたのですが、救いや癒し、導きとなるはずの宗教が、どうして罪悪感に苛まされる存在となってしまうのか?どうして自分自身を苦しめるもととなってしまうのか?

ベルイマンが『沈黙』を観たら一体どんなことを感じただろうな。
そんなことを考えてしまいました。



ハイ、というわけで次回は『沈黙-サイレンス-』の最終回【文化】についてupして〆たいと思います。・・・・・おわるかなーおわるかなー




■この記事に関連する映画制作国、地域 : アメリカ映画 

FC2共有テーマ : 映画感想 (ジャンル : 映画

  2017/09/16 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ ↑ | edit

『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その1【言語】について

   ↑  2017/09/08 (金)  カテゴリー: シリアス、社会派






沈黙 - サイレンス - [Blu-ray]


●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他
●17世紀、江戸初期。日本で布教活動を行っていた高名なポルトガル人宣教師フェレイラが、キリシタン弾圧を進める幕府の拷問に屈して棄教したとの知らせがローマに届く。さっそく弟子のロドリゴとガルペが真相を確かめるべく日本へと向かい、マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎のキリシタンの村に潜入する。そして村人たちに匿われ、信仰を通じて彼らと心を通わせていく。やがてロドリゴたちの存在は、狡猾にして冷酷な手段を駆使して隠れキリシタンをあぶり出しては、彼らに“転び(棄教)”を迫る長崎奉行・井上筑後守の知るところとなり・・・。




Martin Scorsese’s Silence To Be Released By End of 2016【AwardsDaily.com】
Martin Scorsese’s Silence To Be Released By End of 2016 【AwardsDaily.com】
おぉ、"沈黙"の中に十字架があるというこの構図。スゴイんだけど、漢字の下の部分があるのかどうか気になって気になって仕方がない・・・・



て。
今回のこの『沈黙』という映画なんですけれど、映画評論家の方々や各分野における専門家の皆様の分析が大変面白かったので、私がこれと言って書けることは特に何もないのです。

・・・とか言ってしまうと身も蓋もないので、せっかくなので「どの分野のどんな点が興味深かったのか」くらいはまとめておこうかなと思います。『沈黙』の鑑賞には【言語】【宗教】【文化】の3点セットがもれなくついてきまして、色々と調べたり驚いたり考えたりしているうちにとても長くなってしまったので、これを3回に分けて投稿しようと思います。今日は【言語】についてです。

今年の夏は『ハクソーリッジ』とほぼ同時鑑賞の『沈黙』のおかげで、お休み丸つぶれですよ。ありがとうございました(笑)。原作小説や関連する論文やインタビュー記事を夜な夜な読むのが面白かったです。未知の分野に出会うって、おもしろいですねー。








【言語】 棄教する="転ぶ"?


BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」の中での、ブリガムヤング大学アジア・中近東言語学部日本文学教授ヴァン・C・ゲッセル(Van C. Gessel)氏の講義が大変興味深かったので書き残しておこうと思います。

・棄教する : Apostatize
・ころぶ : fall down


"Apostatize"だと強い意味合いでの"棄教"、つまり信仰を完全に捨て去るということになるけれど、日本のキリシタンたちは" fall down"ころんだのだ、と。
       ↓   ↓  
転ぶと人間はどうするか? → また起き上がることができる
つまり、転んでも再び立ち上がる、再起することが出来るのだ!というかなり前向きな捉え方をされていました。へぇー、私はどちらかというと「踏絵を踏んで"転んだ"」というと、"無理強いされて意志を貫けなかった"というようなネガティブなイメージで捉えていたので「本当かいな!」と、ちょっと言葉の語源について調べてみました。



line.png


参考にさせていただいたのは、国際基督教大学リポジトリに保存されている国際基督教大学学報『アジア文化研究』 35号 (2009年3月30日発行) 岸本恵実さんによる(研究ノート) キリシタンの棄教を表す「ころぶ(転ぶ)」という言葉について(p.111 - p.123)です。

16 世紀末全国統一政権によりキリシタンが棄教を強要される事態が起こったころから、動詞「ころぶ」は、本来持っていた意味から棄教する意味で比喩的に用いられるようになったと考えられる。

当時「ころぶ」という言葉は現代語と比べると「回転する」よりも「下方に落ちる」「立っていたものが倒れる」という意味合いが強く、外圧を受けて保っていた信仰を放棄することを否定的な感情を伴って端的に言い表すのに、適当でごく身近な表現であったと考えられる。

話し手の否定的評価を含む(非キリシタンが用いた例が多い)。非キリシタンからすれば改宗は肯定されることであったはずだが、信仰を貫けなかった者に対する侮蔑の感情を含んでいる。


(研究ノート) キリシタンの棄教を表す「ころぶ(転ぶ)」という言葉について ( (Research Note) The Japanese Word Korobu, Meaning “The Renunciation of Kirishitans’ Faith”) 国際基督教大学学報『アジア文化研究』 35号 (2009年3月30日発行)111-123頁  ㊟ライセンスは≪CC BY-NC-ND≫ 重要箇所をそのまま引用させていただきました


"立っていたものが倒れる"=外圧を受けて信仰を放棄する、そしてそのことがやはり侮蔑的な意味合いを含んでいたのか、と思うと、英語圏の人が思うような「転んでも立ち上がれる!」といったポジティブな意味は含まれていないような気がします。が、「ころぶ」という言葉には、自ら棄教した訳ではなく「棄教"させられる"」→つまり自分以外の力によって屈してしまうという意味合いを含んでいますから、転んだ後は「自分の力で立ち上がる」という(棄教の反意語とはなりえない)状態を想像することは可能でしょう。とても英語らしい、素敵な解釈だなぁとは思うんですよ。確かにそこからの"再生"をスコセッシ監督は最も重要な要素として描いていましたから。ね。
(※文末に追記あります)




個人的にもう一点、「ころぶ」という表現で興味深いなぁと思ったのは、日本人は「棄教」や「背教」といった完全にバッサリと棄て去るという強烈で直接的なイメージを持つ言葉を使わずに"ころぶ"という比喩的な使い方をしていたという点です。信徒を俵に詰め、積み上げて転がしたという「キリシタン拷問法」というものはあったようですが、そこでソフトな印象の言葉を使う、遠回しな言い方をする、ここに良くも悪くも日本人らしさを感じてしまうのです。

日本語には"罵り言葉"が他言語に比べて少ないと言われていますが、そこにこのポイントがあるような気がしました。
だってイタリア語なんて罵倒語とか凄いものですよ。サッカーの試合を皆で観ている時なんか特に!parolaccia(パロッチャ)というのですが罵り言葉が飛びに飛び交って、かーちゃんとか息子の彼女とかも一緒になって、私一人チョット何言ッテルカワカラナイ状態。覚えなくていいと言われましたけど、そもそも日本語に訳せない(笑)!

表面的には礼儀正しく、汚い言葉は用いらず、本音と建て前を使い分け、その中に嫌味や皮肉を含むことででネガティブな感情を表現するところ。ここに思わず"日本人らしさ"を感じてしまうのです。閉鎖的な土地の中で、直接的な言い回しではなく「転び」と言うことで蔑みの気持ちを表していたのかもしれません。社会言語学とか勉強していると、きっとその辺り面白いのかもしれませんね。



line.png



また、映画『沈黙』では、異文化地域において外の世界から持ち込まれた「言語」あるいはそこに付随する「概念」の間に生まれる差や違いについても触れられています。劇中、リーアム・ニーソン演じるフェレイラ神父の役割が正しくそれでした。

日本人には「主」の概念が伝わらない、という件です。彼が異国の地、日本で身を持って得た経験は、恐らく日本人の心を知るものであれば決して理解は難しくないと思います。歴史も習慣も異なる文化の中、同じ物事を異なる言語で全く同じように理解するということは容易いものではありません。


そこで私が思い出したのが、イスラム教の聖典クルアーン(コーラン)についてです。クルアーンは原則アラビア語以外への翻訳は許されていません

 


確かに、日本語版も含む数多くの言語で訳されてはいますが、それはあくまでも"注釈"という形。コーランはもともと口承を経てまとめられたものであり、「声に出して読むこと(読誦)」を意味したものでもあります。

観光地などのモスクに行くと、そこには中東やアフリカ、ヨーロッパ、アジアなど本当に様々な国の人々が集い、皆同じアラビア語で祈りを捧げているのを目にします。

どの国のムスリムも聖典を読むためにアラビア語を学んでおり、声に出して読誦することで、一つの言語で信仰を共有しているようにも思ったものです。そして、それは言語を一つに限ることでニュアンスの違いや元来の解釈から大きく逸れないための"リスク回避策"のようにも思えるのです。もっとも、仮に完璧な翻訳が可能だとしても、コーランの特徴であるあの韻を踏むような美しいアラビア語の響きは、他言語で決して再生出来るものではありませんしね。



line.png




言葉の使い方ひとつにしても、たった一つの単語にしても、それが生まれた土地の歴史や使用されてきた背景が必ず存在します。それを異文化で使われている言語に訳したり当てはめたりすることは非常に難しい作業であり、時には誤訳や誤解を生むなどのリスクも起こるでしょう。

言葉を使うにあたっては壁や限界があることの怖さ、そして、逆にそれがあってこそ生まれる相互理解や歩み寄りなど。この『沈黙』という映画ではそういった部分も、宣教師側と日本側の双方からバランスよく描かれていると思いました。ここはある程度【文化】の項目に入ってくるかもしれません。それはまた後ほど・・・・



というわけで。
今回は『沈黙 - サイレンス -』を観て思ったこと、【言語】についてでした。次回はこの映画で最も大きなテーマだった【宗教】についてをupしたいと思います。







追記【2017.9.22】

キリシタンの文学―殉教をうながす声 (平凡社選書 (181))


大阪大学文学研究科比較文学専攻教授の故・米井力也先生による「キリシタンの文学 殉教をうながす声」を読んでいた時、「日本キリシタン教会史補遺」(コリャド [著] ; 井手勝美訳 ; ホセ・デルガ ド・ガルシア註 雄松堂書店1980.2)のある一節が目に入り、アッと思いました。

「医者は健やかな者にではなく、病める者に必要なのです。この世は罪で病んでいます。このためにディオス[デウス]の御子[イエス・キリスト]が降って人となられ、罪人を救い病人を癒さんがために死と受難を受け給うたのです。パードレ様もこれを扶けんがために故国から日本へ来られるのです。この二人のパードレ様も日本へ来られたのです。されば元気を出して下さい。誰も怯んではなりません。皆さん、この主のご慈悲を信じて悔い改めなさい。転んだ者、教えを棄てた者は立ち上り、立っている者は転ばぬよう心して下さい。この主のご慈悲は御一同のためのものです。」

米井力也『キリシタンの文学 殉教をうながす声』(平凡社選書 1998.9)237頁


1622年日本人キリシタン平山常陳[ヨアキン]が長崎で二人の宣教師(ルイス・フロレス、ペドロ・デ・スニガ)とともに火刑に処される(平山常陳事件)直前、日本語のできないフロレスの命に従って周囲の群集にこのように説教したとされています。

日本語が堪能だったとされるスペイン人宣教師ディエゴ・コリャード(コリアド)神父は、平山常陳の日本語を「日本キリシタン教会史補遺」の中で「転ぶ」「立ち上がる」として残しているのです。 ※スペイン語訳での上記赤文字部分:「arrepientanse, y leuantense los caidos, y renegados, y los que estàn en pie miren no caigan,」


驚きました。平山常陳は"日本語"として最後の説教で信徒たちに「立ち上がる」という言葉を残したのだろうか?と。


「転ぶ」という否定的な意味合いの言葉に対する対義語をもって、それを逆転させるが如く「立ち上がる」という力強さへと変換させていること。ここにハッとさせられたのです。棄教を突きつけられ追い詰められた人々に対し「立ち上がってください」と言ったことに対して、ころんだら、もう一度立ち上がれるのだろうか?ころんでも、また立ち上がってよいのだろうか?と。まるでその群衆の中にいた弱き心のキリシタンのように私の心も揺さぶられました。言葉というのは、本当に強く確かな力が込められているのだと改めて思います。




■この記事に関連する映画制作国、地域 : アメリカ映画 

FC2共有テーマ : 映画感想 (ジャンル : 映画

  2017/09/08 | Comment (0) | Trackback (0) | HOME | ↑ ページ先頭へ ↑ | edit