はなまるこ

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沈黙-サイレンス- [Blu-ray]



●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他
●17世紀、江戸初期。日本で布教活動を行っていた高名なポルトガル人宣教師フェレイラが、キリシタン弾圧を進める幕府の拷問に屈して棄教したとの知らせがローマに届く。さっそく弟子のロドリゴとガルペが真相を確かめるべく日本へと向かい、マカオで出会った日本人キチジローの手引きで長崎のキリシタンの村に潜入する。そして村人たちに匿われ、信仰を通じて彼らと心を通わせていく。やがてロドリゴたちの存在は、狡猾にして冷酷な手段を駆使して隠れキリシタンをあぶり出しては、彼らに“転び(棄教)”を迫る長崎奉行・井上筑後守の知るところとなり・・・。




Martin Scorsese’s Silence To Be Released By End of 2016【AwardsDaily.com】
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おぉ、"沈黙"の中に十字架があるというこの構図。スゴイんだけど、漢字の下の部分があるのかどうか気になって気になって仕方がない・・・・



て。
今回のこの『沈黙』という映画なんですけれど、映画評論家の方々や各分野における専門家の皆様の分析が大変面白かったので、私がこれと言って書けることは特に何もないのです。

・・・とか言ってしまうと身も蓋もないので、せっかくなので「どの分野のどんな点が興味深かったのか」くらいはまとめておこうかなと思います。『沈黙』の鑑賞には【言語】【宗教】【文化】の3点セットがもれなくついてきまして、色々と調べたり驚いたり考えたりしているうちにとても長くなってしまったので、これを3回に分けて投稿しようと思います。今日は【言語】についてです。

今年の夏は『ハクソーリッジ』とほぼ同時鑑賞の『沈黙』のおかげで、お休み丸つぶれですよ。ありがとうございました(笑)。原作小説や関連する論文やインタビュー記事を夜な夜な読むのが面白かったです。未知の分野に出会うって、おもしろいですねー。








【言語】 棄教する="転ぶ"?


BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」の中での、ブリガムヤング大学アジア・中近東言語学部日本文学教授ヴァン・C・ゲッセル(Van C. Gessel)氏の講義が大変興味深かったので書き残しておこうと思います。

・棄教する : Apostatize
・ころぶ : fall down


"Apostatize"だと強い意味合いでの"棄教"、つまり信仰を完全に捨て去るということになるけれど、日本のキリシタンたちは" fall down"ころんだのだ、と。
       ↓   ↓  
転ぶと人間はどうするか? → また起き上がることができる
つまり、転んでも再び立ち上がる、再起することが出来るのだ!というかなり前向きな捉え方をされていました。へぇー、私はどちらかというと「踏絵を踏んで"転んだ"」というと、"無理強いされて意志を貫けなかった"というようなネガティブなイメージで捉えていたので「本当かいな!」と、ちょっと言葉の語源について調べてみました。



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参考にさせていただいたのは、国際基督教大学リポジトリに保存されている国際基督教大学学報『アジア文化研究』 35号 (2009年3月30日発行) 岸本恵実さんによる(研究ノート) キリシタンの棄教を表す「ころぶ(転ぶ)」という言葉について(p.111 - p.123)です。

16 世紀末全国統一政権によりキリシタンが棄教を強要される事態が起こったころから、動詞「ころぶ」は、本来持っていた意味から棄教する意味で比喩的に用いられるようになったと考えられる。

当時「ころぶ」という言葉は現代語と比べると「回転する」よりも「下方に落ちる」「立っていたものが倒れる」という意味合いが強く、外圧を受けて保っていた信仰を放棄することを否定的な感情を伴って端的に言い表すのに、適当でごく身近な表現であったと考えられる。

話し手の否定的評価を含む(非キリシタンが用いた例が多い)。非キリシタンからすれば改宗は肯定されることであったはずだが、信仰を貫けなかった者に対する侮蔑の感情を含んでいる。


(研究ノート) キリシタンの棄教を表す「ころぶ(転ぶ)」という言葉について ( (Research Note) The Japanese Word Korobu, Meaning “The Renunciation of Kirishitans’ Faith”) 国際基督教大学学報『アジア文化研究』 35号 (2009年3月30日発行)111-123頁  ㊟ライセンスは≪CC BY-NC-ND≫ 重要箇所をそのまま引用させていただきました


"立っていたものが倒れる"=外圧を受けて信仰を放棄する、そしてそのことがやはり侮蔑的な意味合いを含んでいたのか、と思うと、英語圏の人が思うような「転んでも立ち上がれる!」といったポジティブな意味は含まれていないような気がします。が、「ころぶ」という言葉には、自ら棄教した訳ではなく「棄教"させられる"」→つまり自分以外の力によって屈してしまうという意味合いを含んでいますから、転んだ後は「自分の力で立ち上がる」という(棄教の反意語とはなりえない)状態を想像することは可能でしょう。とても英語らしい、素敵な解釈だなぁとは思うんですよ。確かにそこからの"再生"をスコセッシ監督は最も重要な要素として描いていましたから。ね。
(※文末に追記あります)




個人的にもう一点、「ころぶ」という表現で興味深いなぁと思ったのは、日本人は「棄教」や「背教」といった完全にバッサリと棄て去るという強烈で直接的なイメージを持つ言葉を使わずに"ころぶ"という比喩的な使い方をしていたという点です。信徒を俵に詰め、積み上げて転がしたという「キリシタン拷問法」というものはあったようですが、そこでソフトな印象の言葉を使う、遠回しな言い方をする、ここに良くも悪くも日本人らしさを感じてしまうのです。

日本語には"罵り言葉"が他言語に比べて少ないと言われていますが、そこにこのポイントがあるような気がしました。
だってイタリア語なんて罵倒語とか凄いものですよ。サッカーの試合を皆で観ている時なんか特に!parolaccia(パロッチャ)というのですが罵り言葉が飛びに飛び交って、かーちゃんとか息子の彼女とかも一緒になって、私一人チョット何言ッテルカワカラナイ状態。覚えなくていいと言われましたけど、そもそも日本語に訳せない(笑)!

表面的には礼儀正しく、汚い言葉は用いらず、本音と建て前を使い分け、その中に嫌味や皮肉を含むことででネガティブな感情を表現するところ。ここに思わず"日本人らしさ"を感じてしまうのです。閉鎖的な土地の中で、直接的な言い回しではなく「転び」と言うことで蔑みの気持ちを表していたのかもしれません。社会言語学とか勉強していると、きっとその辺り面白いのかもしれませんね。



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また、映画『沈黙』では、異文化地域において外の世界から持ち込まれた「言語」あるいはそこに付随する「概念」の間に生まれる差や違いについても触れられています。劇中、リーアム・ニーソン演じるフェレイラ神父の役割が正しくそれでした。

日本人には「主」の概念が伝わらない、という件です。彼が異国の地、日本で身を持って得た経験は、恐らく日本人の心を知るものであれば決して理解は難しくないと思います。歴史も習慣も異なる文化の中、同じ物事を異なる言語で全く同じように理解するということは容易いものではありません。


そこで私が思い出したのが、イスラム教の聖典クルアーン(コーラン)についてです。クルアーンは原則アラビア語以外への翻訳は許されていません

 


確かに、日本語版も含む数多くの言語で訳されてはいますが、それはあくまでも"注釈"という形。コーランはもともと口承を経てまとめられたものであり、「声に出して読むこと(読誦)」を意味したものでもあります。

観光地などのモスクに行くと、そこには中東やアフリカ、ヨーロッパ、アジアなど本当に様々な国の人々が集い、皆同じアラビア語で祈りを捧げているのを目にします。

どの国のムスリムも聖典を読むためにアラビア語を学んでおり、声に出して読誦することで、一つの言語で信仰を共有しているようにも思ったものです。そして、それは言語を一つに限ることでニュアンスの違いや元来の解釈から大きく逸れないための"リスク回避策"のようにも思えるのです。もっとも、仮に完璧な翻訳が可能だとしても、コーランの特徴であるあの韻を踏むような美しいアラビア語の響きは、他言語で決して再生出来るものではありませんしね。



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言葉の使い方ひとつにしても、たった一つの単語にしても、それが生まれた土地の歴史や使用されてきた背景が必ず存在します。それを異文化で使われている言語に訳したり当てはめたりすることは非常に難しい作業であり、時には誤訳や誤解を生むなどのリスクも起こるでしょう。

言葉を使うにあたっては壁や限界があることの怖さ、そして、逆にそれがあってこそ生まれる相互理解や歩み寄りなど。この『沈黙』という映画ではそういった部分も、宣教師側と日本側の双方からバランスよく描かれていると思いました。ここはある程度【文化】の項目に入ってくるかもしれません。それはまた後ほど・・・・



というわけで。
今回は『沈黙 - サイレンス -』を観て思ったこと、【言語】についてでした。次回はこの映画で最も大きなテーマだった【宗教】についてをupしたいと思います。







追記【2017.9.22】

キリシタンの文学―殉教をうながす声 (平凡社選書 (181))


大阪大学文学研究科比較文学専攻教授の故・米井力也先生による「キリシタンの文学 殉教をうながす声」を読んでいた時、「日本キリシタン教会史補遺」(コリャド [著] ; 井手勝美訳 ; ホセ・デルガ ド・ガルシア註 雄松堂書店1980.2)のある一節が目に入り、アッと思いました。

「医者は健やかな者にではなく、病める者に必要なのです。この世は罪で病んでいます。このためにディオス[デウス]の御子[イエス・キリスト]が降って人となられ、罪人を救い病人を癒さんがために死と受難を受け給うたのです。パードレ様もこれを扶けんがために故国から日本へ来られるのです。この二人のパードレ様も日本へ来られたのです。されば元気を出して下さい。誰も怯んではなりません。皆さん、この主のご慈悲を信じて悔い改めなさい。転んだ者、教えを棄てた者は立ち上り、立っている者は転ばぬよう心して下さい。この主のご慈悲は御一同のためのものです。」

米井力也『キリシタンの文学 殉教をうながす声』(平凡社選書 1998.9)237頁


1622年日本人キリシタン平山常陳[ヨアキン]が長崎で二人の宣教師(ルイス・フロレス、ペドロ・デ・スニガ)とともに火刑に処される(平山常陳事件)直前、日本語のできないフロレスの命に従って周囲の群集にこのように説教したとされています。

日本語が堪能だったとされるスペイン人宣教師ディエゴ・コリャード(コリアド)神父は、平山常陳の日本語を「日本キリシタン教会史補遺」の中で「転ぶ」「立ち上がる」として残しているのです。 ※スペイン語訳での上記赤文字部分:「arrepientanse, y leuantense los caidos, y renegados, y los que estàn en pie miren no caigan,」


驚きました。平山常陳は"日本語"として最後の説教で信徒たちに「立ち上がる」という言葉を残したのだろうか?と。


「転ぶ」という否定的な意味合いの言葉に対する対義語をもって、それを逆転させるが如く「立ち上がる」という力強さへと変換させていること。ここにハッとさせられたのです。棄教を突きつけられ追い詰められた人々に対し「立ち上がってください」と言ったことに対して、ころんだら、もう一度立ち上がれるのだろうか?ころんでも、また立ち上がってよいのだろうか?と。まるでその群衆の中にいた弱き心のキリシタンのように私の心も揺さぶられました。言葉というのは、本当に強く確かな力が込められているのだと改めて思います。




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