『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その2【宗教】について

はなまるこ

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沈黙-サイレンス- [Blu-ray]


●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他




はい、こんばんは!
前記事では、マーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画『沈黙 - サイレンス -』の【言語】【宗教】【文化】3点セットのうち、個人的に興味深かった【言語】についてまとめてみましたが、今回は【宗教】について書き残しておこうと思います。


いやー、しかしですね、このブログを立ち上げた時から漠然と思っていたことなんですけれど、「映画の世界へ出かけよう!」と副題を付けただけあって、私はやっぱり映画を観た時にそこに描かれた物語の背景、社会や生活や歴史などを知ることによって、もっと映画の世界を楽しみたいのだなぁと、自分自身のことながら今回つくづく思いました。映画を一つ一つ観るたびに、知らないことって沢山あるのだなぁ、本当に自分はものを知らないんだなぁ、世界はとてつもなく広いのだなぁ、といやがうえにも思うようになりました。そして、それを教えてくれる映画って、本当にアリガタイものだなーとも思っています。








【宗教】 日本人 遠藤周作の原作小説「沈黙」


キリスト教を「着せられた洋服」「自分の体に合わない洋服」と感じていたという遠藤周作。彼の原作小説「沈黙」は、遠藤自身の幼い頃からのキリスト教徒としての在り方への疑問、カトリック教徒としての違和感が底辺に流れています。

そのため、「沈黙」の原作そのものが遠藤自身のカトリック教徒としての居場所探しであり、日本(もしくは東洋)独特の宗教観あるいは信仰心を融合させた新たなキリスト教像を生み出した物語なのだろうなと強く感じました。



①「人々の前で告白する」ことの重要性

私なんかからしますとね、もう、みんなの命がかかっているんだから踏んでおけばいいじゃんいいじゃん「形だけでイイ」「かすめるだけでもいい」って言ってるんだから踏んじゃった方が皆のためだよ!なんて思ってしまうわけですが、この"形だけ"というのが問題なんだろうなぁ。

新約聖書にある「マタイによる福音書」第10章26-33節には、福音宣教のため派遣される12人の弟子たちにイエスがその心得を説いたものが書かれています。

「人々の前で私の味方であると宣言する者を、私もまた天におられる父の御前で私の味方であると宣言する。しかし、人々の前で私を否む者を、私もまた天におられる父の御前で否むであろう。」

(マタイによる福音書10:32-33)



カトリック(聖書の解釈は教会の仕事)と、プロテスタント(聖書の解釈は個人)。

この映画を観た後、私は日本にあるそれぞれの教会の説教というものを色々読んでみたのですが、まずひとつは「私は主イエス・キリストを信じる者です」と人々の前で告白することが大事だから「踏絵を踏む=キリスト教徒ではないと宣言する」なんてトンデモナイ!という考え。そしてもう一方では「イエス様は弟子たちの弱さ・孤独・苦しみも知っていたし他の町へ逃げなさいとも仰っていた。主は我々の心の内にどんな時も共にいてくださるのです」という、約二通りほどの解釈を読みました。


その中でも、最も強烈かつ興味深かったのは東京基督教大学の教授だった小畑進牧師による「遠藤周作著小説『沈黙』論」

こ、これは秋の夜長の眠気も吹っ飛びます。
PDFで読むことができますので、映画を鑑賞された方は是非!

宗教とは常識的な人間の論理に対しては異常なものなのであり、神の主権を人間の情愛の中に曖昧にしたり、見失ってしまったりしては成り立たないものであることを銘記させられなけれななりません。
  (中略)
小説「沈黙」の人間へのもたれこみは、作者の軽い作品と通じて、その甘さにむせてしまうのです。



・・・そ、そうなのか。"神"というもの、"救い"というものに対する概念は、本物の聖書に基づいた宗教となると私が持つものなんかとこれほどに違うのか・・・と非常にビックリいたしました。遠藤周作の原作小説に漂う"ある種のナイーブさ"は見事なまでに木端微塵・・・・・





②遠藤周作のエキュメニズムと、日本的な「寄り添う神」「赦す神」 日本独自の寛容性を内包した信仰

拷問の末、無残に息絶えていく信徒たち。美しい天使が吹くラッパの音が鳴り響く、そんな輝かしい"殉教"を信じていたロドリゴは、壮絶な拷問を受け続ける信徒たちの姿に耐えられなくなっていきます。そして「なぜ、主は沈黙を続けるのか」と。


「それでよい。よいのだ。踏みなさい。お前の痛みは知っている。私は人々の痛みを分かつためこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ。お前の命は私と共にある。踏みなさい。」
●映画「沈黙-サイレンス-」 日本語字幕より

心のうちに響いてくるんですねぇ。"声"が。
自分が踏めば、転べば、多くの日本人キリシタンの命が救われるという、一人の人間としての良心の呵責。そしてそれを実行するにあたって圧倒的な自己肯定力として、イエスの存在が「ともに苦しむ」というものに変容していったのだろうと思うのです。

そして、このロドリゴの心の動きは、カトリックとプロテスタントの教会一致促進運動(エキュメニズム)を推進していたという遠藤周作自身の姿と重なるものがあります。



心の痛み、挫折、弱さ、絶望を通して、「怒り、正義、裁きの神」から「母なる神=慈母、慈しみ、慈悲、憐れみ、寄り添い」の存在へ。

これは母性的な「聖母マリア崇拝」に近いとも思いますが、「同伴者としてのイエス」とも言われ、置かれた状況にあわせて信仰を守る、形式に捉われない日本人の姿(善し悪しは別として)を強く感じさせるものです。そしてここから 「強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」という遠藤周作の切実なる思いに辿りつくものだと思います。 

映画化にあたってマーティン・スコセッシ監督もインタビューでこのように述べています。

"要するに、権威的なアプローチで教えを説くのではなく、キリスト教の中の女性的な面をもって説くのが、日本で受け入れられるやり方ではなかったでしょうか。隠れキリシタンの人たちも、実はキリスト教のそういう面にひかれていたのではないかと思うのです。"






④キチジローと遠藤周作、弱き者を否定しないスコセッシ監督
NHK BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」
NHK BS1スペシャル「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界~」

これまでこの「沈黙」という小説は、遠藤独自の、日本人独特の宗教観を表した物語だと書いてきましたが、ボーンクリスチャンであるスコセッシ監督は、実はずっと以前からこの物語に共鳴していたのですね。

初めて「沈黙」を読んだスコセッシは大きな衝撃を受け、まるで彼個人に話しかけられたような気がした。「遠藤が本で提示したテーマは、私がとても若い時からずっと考えていたものです。私はこの年になっても、信仰や人間のありようについて考え、疑問を感じていますが、これらは遠藤の本が直接的に触れているテーマなんです」
 (中略)
スコセッシは書いている。「――ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼が知っている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」



イタリア系アメリカ人としてシシリー系移民が多く住むニューヨークの下町で育ち、カトリックの神学校に通って司祭になることを目指すも中退、その後は裏社会や暴力を描きながら信仰や罪、贖罪といった道徳や宗教的な テーマを通じて社会の暗部や人間精神の奥底をあぶり出していく作品を多く世に送り出してきたスコセッシ監督。

そして、「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」を抱え、カトリック教徒でありながらカトリックに対して疑念を抱き続けていたという遠藤周作の葛藤。苦悩。



キチジローの言う「この世の中に、弱き者に生きる場はあるのか?」というロドリゴへの問いかけは、まさにスコセッシ監督、そして遠藤周作からのメッセージとなるのでしょう。苦悩や葛藤、迷いを持つ、そういった人間の弱さを包容できてこそ人生に意味があるということを。

また、スコセッシ監督は「あなたが、最も小さい者(弱い者)の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」という、弱いものに寄り添うことが大事だと説いた部分(マタイによる福音書25章31~40節)が好きだとも仰っていました。弱き者に手を差し伸べるとはどういうことなのか?本当の意味での献身とは?この映画の最も重要な部分に繋がる言葉だと思います。



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余談ですが、この映画を観ていて思い出したのが、2003年のスウェーデン映画でイングマール・ベルイマン監督の『サラバンド』でした。

『サラバンド』 (2003/スウェーデン)

ベルイマン (Century Books―人と思想)



牧師の子でありながら、生涯ベルイマンが苦しみ、自問し続けたのは「神の不在」でした。
これを観た時にも書いたのですが、救いや癒し、導きとなるはずの宗教が、どうして罪悪感に苛まされる存在となってしまうのか?どうして自分自身を苦しめるもととなってしまうのか?

ベルイマンが『沈黙』を観たら一体どんなことを感じただろうな。
そんなことを考えてしまいました。



ハイ、というわけで次回は『沈黙-サイレンス-』の最終回【文化】についてupして〆たいと思います。・・・・・おわるかなーおわるかなー





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