『沈黙 - サイレンス -』 (2016/アメリカ) その3【文化】について

はなまるこ

はなまるこ







沈黙-サイレンス- [Blu-ray]


●原題:SILENCE
●原作:遠藤周作「沈黙」
●製作、監督:マーティン・スコセッシ
●出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー、浅野忠信、キアラン・ハインズ、窪塚洋介、笈田ヨシ、塚本晋也、イッセー尾形、リーアム・ニーソン 他




マーティン・スコセッシ監督のアメリカ映画『沈黙 - サイレンス -』。
前々回は【言語】について、前回は【宗教】について、自分の中で興味深かった点を書き残してきましたが、今回は【文化】についてを最後にまとめてみようと思います。







【文化】 日本には宗教が根付かない?

『沈黙 - サイレンス -』という映画で何が一番興味深かったかといえばですね、日本にキリスト教が根付かなかったという【日本泥沼論】。こーれーは面白かった!

監督したスコセッシ監督は、「日本人が怖がるのは"地震、雷、火事、親父"」と仰っていましたが、確かにこれは当たらずと雖も遠からず。日本人が恐れるものとして"神様"が入っていませんものね。むかしは「嘘をつくとエンマさまに舌を抜かれるぞー!」なんて子どもたちを怖がらせていたようですが一神教の神様とは違いますし、海の神・山の神・トイレにも神様がいるというくらい、日本には"八百万の神"がいらっしゃると言われてきました。

沈黙 (新潮文庫)


「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたよりも、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。彼等の神だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた」

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」

「日本人は人間を美化したり拡張したりしたものを神とよぶ。人間と同じ存在を神とよぶ。だがそれは教会の神ではない

遠藤周作『沈黙』(新潮社; 改版、1981年) 189~193 頁 本文よりフェレイラのセリフのみ抜粋


これらはスコッセッシ版の映画の中でリーアム・ニーソンが演じたクリストヴァン・フェレイラの、原作「沈黙」の中でのセリフです。

私がこの映画を観ていて感じたのは、今でいうところの「異文化世界に進出する場合はもっと理解力・適応力・柔軟性を持ったグローバルな人材が必要だったのだろうなぁ」ということでもありました。そして、他の世界では通用しない自分たちだけの成功に依存していては新しい道は開けないのだなぁと。そのまま現代にも通じるテーマですね。当時のフェレイラのショックや如何に・・・・

そして、フェレイラのセリフを通して表現された、この「日本は全ての物を根ごと腐らせてしまう沼地」。これって一体どういうことなのでしょうか。





①外来文化を吸収してきた国、日本

日本という国には、多種多様な外来文化を受容してきた歴史があります。
大陸文化から仏教が伝来した飛鳥・奈良時代。南蛮貿易が盛んになって西欧文化とキリスト教の思想がやってきた戦国・安土桃山時代。富国強兵・脱亜入欧・文明開化の明治時代。戦日本が目指したのは物質豊かな国アメリカの文化でした。

そういった中において、思想の問題として「一神教の概念」はどうして日本の中で広く完全に定着しなかったのでしょう。

国民の文明史 (PHP文庫)


京都大学名誉教授で国際政治学者であり日本歴史学者でもある中西輝政先生の著書「国民の文明史」の中に、これに繋がると思われる視点、見解が述べられていますので、ここで是非ご紹介させていただきたく思います。

日本には北の海を越え、あるいは大陸や半島から、また黒潮に乗って外からさまざまなものが次から次へとやってきて、日本はそれを上手に、そしてきわめて独特の方法で受け入れていたのである。そのため、文明の体系が全体としてさまざまな層が重なる、いわゆる「重層文明」となった。
しかしそれは、いつも「文化」がやってくるだけで、一緒に征服者が上陸してくることはなかった。これが、日本の文明史にきわめて独特な、おそらく世界に類例のない本質を与えることになった。つまり、外来文化や文明に対する驚くほどの受容性の高さの原因はここにあったのである。また、この適度なほどの受容性の高さ――何でも「まず受け入れる」ため、前述の「換骨奪胎」の文明機能が、やはり他に類例がないほど深く身についたわけである。言い換えれば、日本文明には、まずとりあえず受け入れるが、自らの本質に合わないものは結局、はね返す、という、確固たる「外柔内剛」の構造が大きな特質としてあるのである。

中西輝政『国民の文明史』(扶桑社,2003年) 第七章 世界の中の日本文明 比較日本文明論Ⅰ 重層文明と更地文明406-407頁


敵対するもの、支配されるもの、強制されるもの(ヨーロッパのカトリック教会やイエズス会、スペイン・ポルトガルの思惑は抜きにして)ではなかったため、キリスト教の教えを得た者は受け入れていったのでしょう。

中西先生は同著において"庶民性こそが日本文化の主人公であった"とも指摘されています。多数の日本人がキリスト教そのものを受容せずに(←変容はさせて)きたその庶民性とは具体的に一体どのようなものなのか、改めて少し考えてみようと思います。





②日本人の「自然」観

silence002a.jpg
元イエズス会司祭で日本管区の管区長代理だったクリストヴァン・フェレイラ。彼は長崎にて棄教した後に「沢野忠庵」の名を与えられ、その後、反キリスト教書として口述したとされる『顕疑録』を残しています。ここに大変興味深い一節がありましたので、それを引用された慶應義塾大学 法学部(日吉)准教授でスペイン文献学・比較思想史専門の折井善果先生の研究論文から一部ご紹介させていただこうと思います。

そこではキリスト教における神による天地創造について、以下のように述べられている。

…然ヲ天地ノ作者、万事ノ主一叢アリト教ル處、偏二鬼利志端宗旨ヲ立謀也。先天地、作ノ物ニアラザルハ、四季転傳、者日月星辰、東西南北。順環不易、是則自然之理也。

天地万物が神によって創られたものではないことは、四季や天体の移り変わりが「自然之理」であることからわかる、とフェレイラ(忠庵)は言う。これはポルトガル出身の第一級の知識人における、創造主を頂点とする神的秩序から、汎神論的な自然主義への転換の瞬間であるという意味において重要である。

折井善果〈研究論文6〉「キリシタン文学における「自然」――スペイン語原典における「偶然(acaso)」の翻訳を手がかりに――」 (学会誌 『比較思想研究』、2005年、第32号)91~100頁


唯一神が万物を創造したというキリスト教観と、豊かさと過酷さが同居する自然をあるがままに受け入れ、自然そのものが摂理という日本人の自然観。

ここで重要なキーワードになるのが、日本語の「自然」という言葉です。
「自然(しぜん)」は英語の「Nature」の訳語として知られていますが、もともとは「自然(じねん)」という仏教的な思想で「自ら然(しか)る」→おのずとそうなる、あるがままという状態のことを表しています。

英語圏での「Nature」という概念は、自然は神が人間のために作られたものであって人間が管理しコントロールすることができるものだというのに対し、日本人は"人間も自然の中の一つ"として捉えてきました。例えば、同じ山に登る・頂上を極めるという言い方でも"西欧的"な言い方では「エベレストを征服する」と言いますが、"東洋的"な山岳信仰の場合、気高く神に近い場所として謙虚な気持ちで「登拝」と表現されます。

大自然に対する畏怖の念を持ち、四季の移ろいや自然現象に美を見出してきた日本人は、その精神を身近なところで大切にしてきました。俳句には季語を入れることで心象風景をより大きく広げることができる・・・・というのは小学校の国語でも習うことですね!

朝顔に 釣瓶とられて もらひ水
 加賀千代女

夏草や 兵どもが 夢の跡
 松尾芭蕉


虫の声、羽音、打ち寄せる波、遠雷の響き、降り続く雨音。スコセッシ版映画『沈黙』のオープニングとエンドロールでは自然と一体化し、自然の中に身を置いている日本人の精神性が、この映画の中で最も強く切り取られているような気がします。




line.png


それでですね、私も日本人の一人としてこの宗教観についてちょっと考えてみました。

a-horz.jpg
私事で大変恐縮ですが、私の母系実家は九州にある浄土真宗のお寺さんであり、父系実家の方は日系アメリカ人としてのキリスト教プロテスタント。私自身もプロテスタントの教会幼稚園に通い(お遊戯会でマリア様をやった!)ましたが、その後は日本の浄土宗系列の学校に通ってお釈迦様のお話が大好きな高校生(お経もあげられます)を経て、その後はイスラム圏生活でイスラム教やコーランの勉強もしてきました(楽しかった!)

で、私はイエスもブッダもアッラーの道をも通って参りましたが、結局のところ、どの宗教へも属していないのです。なぜなのか?私も"泥沼"だからなのか(笑)!?色々考えてみましたが、一つ思い当たることがありました。


食事の前に言う「いただきます」という言葉がありますよね。
私はどこの国にいた時でも、食事の前には必ず手を合わせてこの言葉を言っていました。信仰心とかからではないですよ。そんなものを意識したこともありませんでした。小さい頃から「食事の前には"いただきます"を言いましょう」ってずっと言われてきたじゃないですか。黙って食べるのは何だか気が引けます。無意識からです。そのため、私は日本語で「いただきます」と必ず言っていました。

そして、これは本当に面白いなと思ったことなのですが、どの国でもそれを見ていた周りの友人たちは「オォ、これぞ日本人だ!」「仏教だ!」「いいことだ!」→なぜか「真似したい!」となり、みんなで手を合わせて「ITADAKIMASU!」と言うようになってしまったものでした。ムスリムの場合は食事前に「ビスミッラー(神の御名において)」と言うのですが、なぜか「ビスミッラー、イタダキマス」になってしまいました(笑)。

で、その「いただきます」の言葉の先に、私の思いはどこにあったのか?と考えてみたのです。先述したとおり、もちろん"神様"に対して言っていたのではありません。私が口にしていた「いただきます」は、食事を作ってくれた人、用意してくれた人、命をくれた生き物、作物を育ててくれた自然の恵み。それらに対して私は手を合わせ、感謝の気持ちで「いただきます」を言っていたのだと思うのです。どの信仰においても皆が感謝の言葉を口にする時はいつも「神様」に対してでした。神の恵みとか、神の御心とか。でも、私は神様というものに感謝する気持ちにはどうしてもなれませんでした。私の心から感謝する相手は神様じゃないんだ、そう思ったのです。それで私の心の中には、どの宗教に対しても信仰心というものは根付かなかったのです。

無意識のうちに、私は「人間も自然の中の一つ」という世界観の中にいたのかもしれません。





③受容、変容、融合、土着化する文化


冒頭に記したフェレイラの台詞「根を腐らせる泥沼」という表現は、あくまでも外部から持ち込んできた側からの見方であり、それを受け取った側の日本は、スープにように全てを溶かし込んできたのではないかと私は思うのです。

たとえばそれは【Japanese rice-bowl】←ごはんと親和性のあるものを全て一緒に頂いてしまう【丼もの】のようなものなのかなぁと。今日はご飯系の話題が多いですが(笑)、でもゴハンに合うものを上手に取り入れ、美味しく頂いてきたのがきっと日本の文化なのでしょう。それも"有難く"いただいた、と思うのです。



当初、日本人の中には「キリスト教も仏教の宗派の一つだ」ととらえていた者が多かったのではないか?とする識者の見方も多くあります。言葉や文化の異なる中での理解の限界もあったでしょうし、"仏教化"した形でマリア観音を拝むことへの抵抗がなかったこと、また「死んだらパライソ(天国)に行ける」と映画の中でもロドリゴを困惑させていましたね。

きっと日本人にとって、海を越えてやってきたキリスト教は「ありがたい教え」だったのだと思います。

「私たちを救ってくださる」とわざわざ遠い外国から来てくださったパードレ様を尊ぶ日本人の姿。御恩と奉公という精神が、パードレ様を大事にする恩義に繋がり、殉教への道となった部分もあるかもしれません。「悪い子はいねがー!」や「嘘をついたら針千本」など、地獄の閻魔様や天罰を怖がる日本人は、大切なご先祖様も含めて来世での幸せを願い、死ねば天国に行けると信じていたのでしょう。

日本でのキリスト教は、カトリック教会の思惑とは別に"彼らの神様"からハイブリッド化していったように思えます。

「Deus(デウス)」という概念を「大日」「神」という日本語の漢字訳語に"置き換えた"時点で、すでに唯一神という概念は失われていたのかもしれません。しかし、遠藤周作がクリスチャンとしてのあるべき姿を日本人の立場から模索し続けたように、 受け入れ、融合させ、その沼地に蓮の花を咲かせてきたのが日本人の姿なのかもしれません。







参考文献、論文




日埜 博司 『コリャード懺悔録(さんげろく)』ポルトガル語全訳注 : 解題としてのディエゴ・コリャード略伝,『懺悔録』研究史,原著概要および構成に関する若干の疑問,等, 流通経済大学流通情報学部紀要, 2013-10, 18巻;1号:127 - 156頁


鈴木 元子『ホロコースト、隠れユダヤ教徒、隠れ切支丹:ソールベローと遠藤周作の文学』, 静岡文化芸術大学研究紀要, 2017-03-31, 17巻:1-14頁



関連記事

Comments 0

There are no comments yet.

Leave a reply