『メキシコから来たマリア』 (2012/スペイン) ※本文後半より、物語の結末について考察・言及しています

はなまるこ

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La Venta del Paraiso (The Sale of Paradise)


●原題:La venta del paraíso  英題:The Sale of Paradise
●監督、原作:エミリオ・ルイズ・バラキナ
●出演:アナ・クラウディア・タランコン、ウィリアム・ミラー、ファンホ・プイグコルベ、カルロス・イグレシアス、マリア・ガラロン 他
●メキシコ人女性のアウラ・マリアは、ある日、好条件の働き口を見つけ、スペインのマドリッドに移住する決意をする。しかしなけなしの金でマドリッドに着いたのもつかの間、彼女は求人も家も、帰りの飛行機ですら、すべて偽物だったことが分かる。突如お先真っ暗になってしまったマリアだったが、ふとしたことから地元の”有名人”マダム・ポーラの宿に身を寄せることに・・・。






今回のスペイン映画『メキシコから来たマリア』は、2006年に出版された同タイトル「LA VENTA DEL PARAISO」の原作者でもあるエミリオ・ルイズ・バラキナが監督した作品です。

LA VENTA DEL PARAISO


いやー、日本未公開作品であり、スペイン映画ということもあって情報も非常に少なく、今回は情報収集にかなり苦労しました。が、インディペンデント作品を中心とした【ニューヨーク市国際映画祭(NYCIFF)】では主演女優賞、撮影賞等にノミネートされ、オリジナル脚本賞に見事輝いた映画でもあり、様々な映画祭で受賞している作品として評価されている映画だということが判明。ほほぅ。

そして、何と言っても今回のリサーチの結果、最も大きかった収穫は知的な感性が感じられる、穏やかな風貌と柔和な語り口のバラキナ監督をインタビュー映像で確認できたことでしょう!と言っても私はスペイン語があまり解りませんので、突っ込んだ内容までまるっと理解しているわけではありません。でも、監督がイケメンだということはわかったのでこれでヨシとします。だって、どんな人が監督したのかを知るのって大事なことでしょう?(笑)







『メキシコから来たマリア』。このスペイン映画の注目すべき特徴は、スペイン社会から疎外された人々や移民問題・失業問題、排他的な若者の過激思想といった現実的なテーマの中に、非現実的で奇妙・超現実的なシュルレアリスムを漂わせる映像表現を持ち込むという、そのチャレンジングな点だと思います。

「え!?」と思うようなショットが突然、思いがけないところに挟み込まれるため「あれ、私は今何を見ていたのだろう・・・・??」と我に返ることもしばしば。

これらがキラリと光るかな!?と期待しながら観ていたのですが、残念なことに映像的強弱のニュアンスがやや弱いためか、「エ!?」というよりも「???」ということの方が多かったかも。そのせいで、映画の持つ熱量と反比例するかのように、語るべき視点がやや曖昧になってしまったかもしれません。全体的に、洗練されていない荒削りな印象を受けるのです。

逆に言えば、普段から観慣れているハリウッド映画や米国ドラマのような映像集が、いかにスタイリッシュに編集されているのかに気づかされるわけですが・・・・



ただ、わかるんですよ。恐らく映画で表現したかったであろう事、言いたかったであろう事は、よーく分かるんです。不器用ながらもよーく伝わってくるんですよ。

だからなのでしょう、この狙ったワケではないであろう拙さや不器用さが、逆に奇抜さの一歩手前のユーモアと、決まりきった映画の文法や表現には囚われないダイナミックさを物語に与えるという、予想外の効果を生み出しているということも確かなのです。そしてそういった側面が「あと一歩!」と思わせるだけに、個人的には思わず後押ししてあげたくなってしまうという魅力もあったりして。

それに、主人公マリアを支えるベテラン俳優たちのユニークな存在感が頼もしく、とても印象的なんですね。

初めて見る俳優さんたちばかりでしたが、複雑でほろ苦いそれぞれの人生を味わい深く、そしてカラフルに彩り、そこに温かな血を通わせていたのはまぎれもなく演者の力なのでしょう。貫禄と包容力のある彼らの存在感。これがこの映画を愛おしく思わせる一番の理由だったかもしれません。






『メキシコからきたマリア』という映画は、縦軸にスペインでの移民問題をユーモアと混乱の中に、そして主人公マリアが抱える個人的な問題を横軸に、様々な人々の人間模様を織り込んでいきます。

他人を寄せ付けない、諦めを含んだような悲しげなマリアの表情。それがずっと気がかりでした。彼女は一体、どんな過去を抱えているのだろうと。

"私は過去の一部をなくしました
過去の一部は私の過去じゃない 他人のもの"




そんなマリアに対し、女主人プーラの息子、アンドレスがこう話しかけます。

"痛みを知るものは同じままではいられない
痛みはすべてを越える
我々を救済し、その先へと進む"





誰とも触れたがらなかったマリアが、唯一心を許せた、女装家で紳士のオリヴェッティ。

マリアは、受け入れることが出来ないほどの痛みを伴う、耐え難い過去を背負っていました。彼女は、そこから逃れることも出来ず、無意識のうちにその痛みを罰として自分自身へと向けていたのかもしれません。人それぞれの人生、その日々の中にある苦悩や困難が溶けてなくなることはないのだろうけれど、それでも、これまで抱えてきたであろう不安や痛みはいつか乗り越えることが出来るかもしれない。

原題である「La venta del paraíso」:楽園の売却、売りに出してしまうこと。それを考えると、この物語は、マリアが彼女自身の"パラダイス"をもう一度構築し直し、乗り越えるための旅だったのではないかな、と思うのです。



以下は『メキシコから来たマリア』のラストシーン、物語の核心部分に触れています。

完全にネタバレしていますので、これから観ようと思われている方は映画鑑賞後に読まれることを強くオススメいたします!また、以下は私個人の見解・見方です。あくまでご参考までに。


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チャイコフスキーの序曲「1812年」 Торжественная увертюра «1812 год»

魂を込めて書き綴っていたスコアを力のある者に問答無用に奪われた調律師のオズワルド。彼は、自分自身の音楽を取り戻すため、指揮者としてコンサートを乗っ取ることに成功します。それはまるで、ナポレオン率いるフランス軍に抵抗し、彼らを退却させるまで戦ったロシア軍の勝利を高らかに謳った「1812」と重ね合わせるかのように。

そして、このドラマチックな旋律の中で、登場人物たちの過去が詳らかにされていくのです。




マリアがポーラの息子アンドレスに導かれるように訪れた店は、墓地の向こう側にひっそりと存在していました。それぞれ異なった時を刻む壁時計が掛かる店の中で、アンドレスに紹介された見知らぬ女性。彼女は、暴漢に襲われて命を落とした女装家オリヴェッティの愛する妻でした。



いつも明るく大らかにマリアを見守ってくれたポーラの深い悲しみ。彼女は息子のアンドレスの墓に慈しむように花を手向けます。マリアのことを気に掛け、見守り、導いてくれたのは他ならぬポーラの亡くなった息子、アンドレスだったのです。

そう、初見時にはそれほど意識していなかったのですが、二度目に観た時、この映画は初めからずっと"死の影"が付きまとっていたのだということに気が付きました。映画の冒頭はメキシコの祭り「死者の日(Día de Muertos)」だったくらいですから。



そして、華やかな大団円を迎える序曲「1812」に合わせるかのように、マリア自身も彼女の過去に決着をつけるべく決断を下します。

恐らく、病に侵されて体の自由を奪われたのであろう父親を、外側から施錠して粗末な部屋の中で外界との接触も遮断させてきたマリア。父親の医療器具を外すというこのショッキングな行為を、相応の罰として彼に死を与えたのだろうと私は初め思ったのです。未婚での出産を修道院で罰せられ、母親の妊娠という偽装で表向きには息子を"弟"として育て、このあまりに酷い行いに人生を奪われたマリアは、父親を罰することを当然望んだのだろうと。

しかし、マリアが父親を"赦す"という表情を見せた時、これは生きながら味あわせていた地獄から父親を解放したのと同時に、マリア自身をも解放し、過去と決別した行いだったのではないかなと思ったのです。※ここで「死」は遠ざけるものではなく「生」の延長線上に隣り合わせで存在するというメキシコの死生観を考えると、死後は生まれ変わりなどなく「天国」か「地獄」のどちらか。も、もしかしたらマリアは父親を地獄送りにしたのかも・・・・!?

魂さえも奪っていこうとする行為に対して闘い、尊厳を取り戻し、祖国への凱旋を果たした序曲「1812」のストーリーと同様、マリアの黒く暗い影は自身の手で大砲を鳴らし、破壊し、そして新たなる再出発への一歩を踏み出していっただろうと思うのです。



語るべきストーリーを持ち、不器用ながらも情熱をもって制作されたであろうこの映画を、私は愛おしく思います。今年もこんな風にして、心のこもった作品に出会えていけたらいいなと思います。

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