『別離』 (2011/イラン)

はなまるこ

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別離 [Blu-ray]


●原題:جدایی نادر از سیمین (Jodái-e Náder az Simin)
 英題:Nader and Simin, A Separation もしくは A Separation
●監督、製作、脚本:アスガー・ファルハディ
●出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ、ババク・カリミ、メリッラ・ザレイ 他
●テヘランに暮らす夫婦ナデルとシミン。妻のシミンは娘の将来を考え、海外への移住を計画していた。しかし準備が進む中、夫のナデルは、アルツハイマー病を抱える父を残しては行けないと言い出す。夫婦の意見は平行線を辿り、ついには裁判所に離婚を申請する事態に。しかし離婚は簡単には認められず、シミンは家を出てしばらく別居することに。一方ナデルは父の介護のため、ラジエーという女性を家政婦として雇う。ところがある日、ナデルはラジエーが父をベッドに縛り付けて外出したことに激高し、彼女を家から手荒く追い出してしまう。するとその夜、ナデルのもとに思いもよらぬ知らせが届くのだった・・・。




日本公開にあたり、このイラン映画につけられた邦題は『別離』。
おそらく英語タイトルの『A Separation』からきたものだと思われます。が、この映画は、ここから想像される夫婦の単なるお別れや別離、離婚についてを語るだけの物語ではありません。

原題はペルシャ語で『جدایی نادر از سیمین』=ナデルとシミンの別れ、という主人公夫妻の名が付けられています。

夫の名で「ナデル」というのはペルシャ語で【貴重な、稀な】という意味であり、妻の「シミン」とは【貴重で価値のある尊いもの】を意味します。つまり、"価値のある貴重なもの"と"尊いもの"とが切り離されてしまうこと。ここに、アスガー・ファルハディ監督がこの映画で訴えたかった思いが込められている気がするのです。Asghar Farhadi -Iranian Writer/Director Gets Oscar For A Separation & Retrospective at Lincoln Center



『別離』という映画は、家族のドラマが中心でキッチンが何度も何度も映し出されるような日常生活を描いているにもかかわらず、食事のシーンがまったく出てきません。料理の話題すらありません。

何かを口にするという意味であれば、ヒートアップする二家族間の揉め事を冷静に判断すべく疲れを滲ませる判事が、甘い角砂糖をチャイに浸して口にするシーンと、外出先から疲れて帰ってきた家政婦ラジエーの娘がお水を欲しがるシーン。そして、ある種の礼儀として来客たちにチャイが振る舞われるシーンだけは例外でしょうか。

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実家に戻った妻シミンが、キッチンで手際よくサラダを作っていく場面(中東ではまな板を使わないんですよね)はありました。が、そこでは心のすれ違った夫婦の会話が交わされるのみであり、「最高のシェフは家庭にあり」と言われるような温かみのあるイランの家庭料理のイメージとの差に、逆に虚しさが心に広がるのです。


そう、この映画は、感情的なもつれによって対立せざるを得なくなっていく登場人物たちの行く末を、ある意味突き放すように俯瞰して捉えているところに、強く冷静な視点を感じます。

それは、当時のアフマディネジャド政権との軋轢により映画製作が禁止された時期があったこの映画が、なぜ【イラン文化イスラーム指導省の検閲】をくぐり抜けられたのか?という問いのヒントでもある気がするのです。


1カット・1シーンがまるでパズルのようにキッチリと組み立てられ、登場人物たちの緊張感や不安・苦悩などをじわりじわりと増幅させながら意外な結末へと向かっていくストーリーは、その中にイランの日常生活における宗教の役割や伝統と現代の対立、家族の介護問題といった現代イラン社会への問題提起を埋め込んでいます。

しかし、観る者を先行きの見えない展開へと引き込んでいく"サスペンスドラマ"としても捉えることが出来るため、「何故そうなってしまったのか?」ではなく「誰が何をしたのか?」の方へ目が行きやすくなるのです。←例えば「お金は誰がとったのか?」とか「ナデルはラジエーが妊婦だと知っていたのか?」など、ですね。

混迷する状況に疲弊し、感情的に昂る登場人物たちの言動とは逆に、アスガー・ファルハディ監督は"沈黙の中"にこの映画への思いを込めている気がしてなりませんでした。






では、この映画の中の登場人物たちがなぜこれほどまでに怒りや不満を露わにしているのでしょうか?その独特な価値観や行動様式等の理解が難しいと、拗れに拗れていく彼らの言動がやや過剰に思えてしまうかもしれません。


『別離』というイラン映画は、アフマディネジャド政権の二期目(2009-2013年)に制作・公開された作品です。

少しだけイランの政治的背景を見てみましょう。
1979年のイラン・イスラム革命後、保守強硬派・改革派・穏健派が交互に担う政権の中、富裕層との圧倒的な経済格差や西欧からの経済制裁、それらを収拾できない政治的混乱などに国民は翻弄され続けてきました。


20 世紀から 21 世紀にかけて、イラン=イラク戦争の復興需要と石油ブームで潤ったラフサンジャニ元大統領や、文明の対話を唱えて社会的自由の確保を理想としたハタミ元大統領は、革命や戦争で多くの犠牲者を出した労働者や農民の貧困層や失業者の救済に十分な関心を示したとはいえない。そこに登場した「鍛冶屋の息子」アフマディネジャドは、さながら「被抑圧者」らしい質実と廉潔を印象づけながら、前回選挙では 63%の高得票率で選出されたのであった。とくに都市の貧困層は、資産の蓄積と新自由主義経済でグローバリゼーションに対応する中間層と対決するアフマディネジャドを味方と考えた。

PDF資料:山内昌之 東京大学大学院教授 (平成22年) 序章 イラン・イスラム政治体制の変容

2005年に発足したマフマディネジャド政権は、保守強硬路線を崩さぬまま核開発を再開。米国やイスラエルを挑発する発言を繰り返したことなどで国際社会で孤立してしまいます。この極端な政府の反米姿勢により、欧米による経済制裁が発動。その影響でイラン経済は圧迫され、社会的不平等や若者たちの就職難など多くの問題を抱え込むことになりました。

そして、2009年。
二期目をかけた大統領選挙で、対立の改革派ムサビ候補が敗れた後、若者を中心にアフマディネジャド政権に対する不満が一気に噴出しました。イラン革命以来といわれる反政府デモ「緑の運動」が起こり、犠牲者・逮捕者を多く出すことになったのです。



『別離』という映画には、生活の様々な側面で抑圧され、経済困窮は悪化の一途を辿るのみだったイランの人々の姿が見え隠れしています。補助金は減らされ、物価は上昇。雪だるま式に増えていく怒りと不満。ぶつかり合うことで増幅する憎しみと不幸の連鎖。 イラン国内に渦巻いていた行き場のない沸々とした怒りが、この映画の内に込められている気がするのです。


「俺は10年 靴屋で働き "不満なら訴えろ"とクビになった。訴えを起こし、裁判所に1年通いつめたが 結局泣き寝入りだ」「失うものは何もない」

そう叫んだ家政婦ラジエーの夫ホジャットのセリフは、この時代を必死に生きていた労働者階級の人間の叫びであり、この言葉こそが『別離』という映画が作られた時代背景にある"怒り"を突いたものだと思うのです。

遠くからサラート(礼拝)の時刻を呼びかけるアザーンが聴こえる中、溢れる涙を拭うこともなく必死に夫の情状酌量を訴える家政婦ラジエー。「どうか、どうか」と夫の代わりに許しを請う彼女の姿に胸が詰まりました。






一方、この『別離』というこの映画は、イラン社会でのイスラム法(シャリーア)に基づく伝統的な法制度との間で苦境に立たされる人々の姿もリアルに描いています。これによって家族の在り方や介護問題、失業問題までもが次々と焙り出されていくという構図にもなっており、特にナデルの妻シミンの抱える苦悩はこの物語の"出発点"となっているとも言えるでしょう。



「(娘は)君みたいにすぐ諦める弱虫にはならない」
「問題に直面したとき、解決するのではなく逃げ出すか手を挙げて降参したろ。君が国を出たい理由は分かるよ。怖いんだ」


夫にこれほど酷い言葉を投げられた彼女は、黒いチャードルで全身を覆うことはせず、英語教師という職を持ち、夫が関心すら持たなかった家事をこなし、家庭では義父の介護も担い、自分の車も所有してきた女性です(ちなみにイランで見られるプジョー206、405などはホドロ社による組立で現地生産したもの)

女性にとっては規制の多い社会の中で、それでもただシミンが大人しく納まってきたわけではない女性であることは十分伝わってきます。だからこそ、彼女は、アルツハイマー病を抱えた義父のことは十分に理解しながらも、聡明な娘テルメーの将来を考えると、このままイランに留まるよりも海外で彼女の可能性を広げるべきだとして自分の人生をも賭けたのでしょう。


イスラム教は単なる"宗教"ではなくムスリムとしての生き方そのものを大切にしており、更に生活全般を律する規範や倫理的・法的なものを体系化した「シャリーア(イスラム法)」に従うことが正しい生き方とされています。

しかし、この映画では、家族以外に介護を頼むことができないとするナデルや、家族以外の男性に触れることが出来ずに十分な介護ができない家政婦テルメー、夫は妻を養うものであり妻が外で働くことをよしとしないホジャットも、シミンと同じように伝統的名誉を重んじるイラン社会の中でシャリーアの適用が困難になっている現実に直面しているのです。





私には、この『別離』という映画で忘れられないシーンがありました。

父ナデルとセルフのGSへ行った11歳の娘テルメーが給油を手伝い、釣り銭を貰えなかったことに対し、ナデルが「自分で言いなさい」と再度テルメーを車から降ろして男性店員にお釣りを出すよう言わせるのです。


少女がガソリンスタンドで一人で給油する姿は、イスラム社会の男性から好奇や批判の目で見られたことでしょう。それでも、いつか自分で車を運転するだろう娘のためにその視線を撥ね退ける強さを父親は教えておきたかったのだと思います。そしてなによりも、お釣りを渡してこなかった男性店員の態度に屈せず、間違ったことに対しては堂々と自分の意見を主張する姿勢を、この国で貫く大切さを教えたかったのでしょう。イランという国から逃げ出さずに闘っていく強さを。




そしてもう一つ。私は、彼の認知症になった父親が外出する際に必ずネクタイを締めていることがずっと気になっていました。

イランの男性社会ではワイシャツにネクタイを締めることは"欧米を象徴するもの"や"反イスラム的なもの"とみなされ、街中でネクタイを着用する人はほぼ見当たらないはずです(穏健派とされる現在のロウハニ大統領になってからは多少緩んできているのかな?)。きっちりと結ばれたネクタイが、私には少し異質に映ったのです。

もしかしたら・・・
お爺ちゃんは、ハタミ政権時代(1997-2005年:女性の権利拡大や社会進出など"改革と自由"を推進した)にネクタイを締めて現役生活を送っていたのかもしれない。そして、息子ナデルにこの国で生きることの誇りを教え続けてくれた人なのかもしれない・・・そんな風に感じたのです。

そして、王政時代より白色革命、イラン革命、イラン・イラク戦争と激動の時代を生き抜いてきたはずのお爺ちゃんが、まるで諦めてしまったかのように言葉を発しなくなったようにも思えたのです。年長者、年配者を常に敬い大切にするイスラム文化。その中において、時折ナデルに向けるお爺ちゃんの"無言の眼差し"の中に、失意と悲しみが見える気がしたのです。






物語が進むにつれ、男性は自分の名誉に関わることことに固執し、状況は悪化し混迷を深めていきます。無理が生じ、その軋轢と衝突によって誤魔化したり嘘を吐いたり傷つけたり・・・。誰もが望んではいなかった、取り返しのつかない苦境にそれぞれが陥ってしまうのです。神に従い、神を愛するが故に追い込まれていくラジエーの絶望を、一体誰が望んでいたというのでしょうか?

事態はどこから変わってしまったのでしょう?
シミンが家を出て行ったことが理由でしょうか?それとも、お爺ちゃんが認知症になってしまったこと?それともお金がなくなったことが原因なのでしようか?


2000年以降、イラン人の平均寿命は70歳まで延び、介護が必要な高齢者が年々増加しているが、イランでは老人介護の施設が非常に少ない。それは、介護は家族の役割であり、施設に入れられた老人は大変不幸であるという社会通念が強いためであるという。イスラムの教えで男女隔離が厳格なイランでは、親族ではない男性の肉体に直接触れたり、介護をすることは、精神的にも社会的にもかなり高いハードルを乗り越える必要がある。

映画『別離』を理解するためのワンポイント【別離 公式サイトより】


誰が何をしたのか?ではなく、何故そうなってしまったのか?
それを考えると、イランの高齢者への介護問題に対し、政府も社会も十分に受け入れの意識と体制が整っていない事実が現代を生きるイランの人々に重くのしかかっていることを、そして直接知らない人には介護を求められず、ヘルパーをお願いすることもできない、家族で介護していくしかない、そんな伝統的名誉を重んじるイラン社会の構造をこの映画では指摘している気がするのです。

(それと、車が車線に沿って走らない、2・3車線をまたいだ急激な車線変更を行う、走る車をすり抜けながら歩行者が渡る、というテヘランの恐ろしい交通事情も!)


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無言で向けられるラジエーの娘の大きな瞳。
大人たちの混乱と諍いの中、傷つくのは一番弱い者たちなのです。



『別離』という映画では、どうしても人の持つ心の弱さや愚かさ、身勝手さといった無自覚から生まれる罪の悲惨さばかりに目が行きやすくなるのですが、でも本当は皆、誰も傷つけるつもりなどなかったはずなのです。

妻シミンは、この国の行く末を案じて離婚などせずに娘を守りたかっただけですし、夫ナデルは父親の介護をしながら、娘にはこの国で強く生きていける術を教えたかったのでしょう。信心深い家政婦のラジエーは貧しい生活の中で夫ホジャットを支えたかっただけですし、ホジャットも格差社会の中で家族を養うために精神的にも追い詰められながら必死で戦ってきた人なのです。

それなのに、彼らは散り散りに引き裂かれていきます。
家族の間で。親子の間で。地域の中で。同じ中産階級の中でも価値観の差が露呈し、神への献身という心の拠り所であった信仰の中でさえも罰を受けるという道となるのです。信心深い母親に寄り添い、ムスリマとして何がハラル(حلال:許されていること)で何がハラーム( حرام:禁じられていること)なのかを既に身に着けている幼いラジエー。物事の本質を見抜き、周りの大人たちの状況を痛いほど理解しているからこそ、深く傷ついていく聡明なテルメー。まるで姉妹のように仲睦まじくキラキラとした笑顔で遊んでいたこの二人もまた、もう会うこともないのでしょう。


現代社会と宗教的価値観のはざまで、沢山の価値ある貴重なものと尊いものとが切り離されてしまう・・・・原題に込められた意味が今、ズシリと重く心に落ちてきます。





それでは最後に、今回のイラン映画『別離』を観るにあたって参考にした文献を残しておきたいと思います。


「イラン人 このフシギな人々」
遠藤 健太郎 (彩流社) 2014/10/24発行
例えば、この本の著者 遠藤 健太郎さんがテヘランに滞在したのがちょうど『別離』が公開された直後、アフマディネジャド大統領二期目後半という頃に当てはまるのですが、実際にテヘランの下町に住む人々の生活に中に滲む失望や怒り、疲弊しきった生活の様子が手に取るようにわかり、映画の背景にある"人々の生の感情"に触れられたようで大変参考になりました。

テヘランの下町に住むアクの強い人々があまりに強烈だったので、面白かったところをちょっとだけ抜粋してみたいと思います。


肉屋のアフムードじーさん p,35-37
「ホメイニは、革命が成功すれば水のガスもタダになると言って国民を騙したんじゃ」。そして革命後、聖職者たちはイスラムをイデオロギーに、統治基盤を強化した。しかし、これもじいさんによれば、「坊主たちは自分たちが権力に居座るために、イスラムを都合よく解釈しているだけなんじゃ」ということになる。「つまり、イスラムを『悪用(スー・エステファーデ)』しているわけですね」と、僕が学校で習いたてのペルシャ語で相槌を入れたら、じいさんが目を見開いて「そのとおりじゃ!」と言ったのを覚えている。

こんなはずじゃ p,138-146
今日のイランに漂う空気をひとことで言い表すならば、「こんなはずじゃなかったのに」ということになるだろう。歴史のどこかで西洋から取り残されてアジアになってしまったイラン。イスラム革命後、人々は戦争で身内を失い、国土は荒廃。坊主(アーホンド)は王様(シャー)よりもひどい恐怖政治を敷き、自由を弾圧し、生活の隅々まで監視する。優秀な人間はみなイランを捨て、国内に残ったのは貧乏人と馬鹿ばかり。核開発で国のイメージは悪化し、制裁はきつくなり、アフマディネジャドで経済は崩壊。気が付いたら中国や韓国にも先を越される始末だ。ああ、こんなはずじゃなかったのに!




「よく晴れた日にイランへ」
蔵前仁一 (旅行人) 2015/4/13発行
著者 蔵前仁一氏による二度目のイラン滞在記。2014年ですので、『別離』よりも後のロウハニ大統領政権となるため、旅の道中や街中の雰囲気もやや緩い感じになっている気がします。そえでもやはり、1ヶ月のイラン滞在中に出会う人々からは政権批判や諦めに似た声が多く聞かれています。

そして、"引用の引用"になってしまうのですが、『物語 イランの歴史―誇り高きペルシアの系譜』(中公新書、2002年)で宮田律氏が書かれているある部分を蔵前氏も参考にされているので、その部分をぜひ。(p,159-160)


イランで、イスラーム共和国体制や政府高官に対する批判がしばしば聞かれるのは、宗教としてのイスラームに対する嫌悪や反発からではない。反感が持たれているのは、政府が権威主義的な方法によって、イスラーム的価値観を強制することだ。むしろ、イスラームは、その理念から逸脱した政府や政治家に対する批判の根拠や基準になっている。イスラーム共和国体制は、イスラームに統治の正当性を求めたが、その適切な運用を図ることができなかった。人権弾圧や、ユダヤやバハーイなど異教徒に対する弾圧、政治腐敗、民主主義や自由の欠如、国民の間の経済格差の拡大は、いずれもイスラームの教義や理念とは相容れないものだ。






参考サイト:

細谷幸子「イスラームと医療倫理――医療機関における異性間身体接触の是非をめぐって」【宗教情報センター】

細谷幸子「現代イランにおける看護とイスラーム――女性看護師が男性患者のボディ・ケアをおこなう場面から――」イスラーム世界研究(2008)1号 (2008 年)92-162 頁

桜井啓子/早稲田大学国際学術院教授「イランの女子大生-働きたくはあるけれども...。」【WASEDA ONLINE】

村上明子「現代イランの女性労働 : 生活調査からみる現地事情の一考察」地域経済経営ネットワーク研究センター年報


【追記2018/5/29】
今月8日、アメリカのトランプ大統領は、2015年にイランと欧米6カ国が締結した核合意から離脱して「イランへの経済制裁を再開する」と表明しました。これはトランプ大統領の北朝鮮に対するメッセージだとか、秋の中間選挙に向けた支持層へのアピールだとか色々言われていますが、いずれにせよイラン国内では反米感情&これまでの失業・物価高騰などの不満が噴出→政府への抗議運動の激化→穏健派と言われるロウハニ大統領の対応を不服とする保守強硬派が巻き返してくるのか?というまたこの流れなのだろうか・・・・。『別離』を観ていた最中だっただけに、映画の登場人物たちの苦悩が浮かばれない気がして現実の厳しさを突きつけられているところです。・・・・きっとシミンなら海外移住を決行するだろうなぁ、なんて思いながら。


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