『テイク・シェルター』 (2011/アメリカ) ※後半に個人的な解釈があります。ご注意を!

はなまるこ

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テイク・シェルター


●原題:TAKE SHELTER
●監督:ジェフ・ニコルズ
●出演:マイケル・シャノン、ジェシカ・チャステイン、シェー・ウィガム、ケイティ・ミクソン、キャシー・ベイカー 他
●田舎の工事現場で働くカーティスは、優しい妻と耳の不自由な娘と幸せな毎日を過ごしていた。しかしある日突然、恐ろしい大災害の悪夢にうなされるようになる。それを、実際に天変地異が起こる予兆と信じた彼は、避難用のシェルター作りに没頭していく。しかし、常軌を逸したカーティスの言動に周囲は戸惑い、愛する妻さえも怒らせてしまう。次第に自分が間違っているのかも知れないとの不安も膨らむものの、それでもシェルター作りを止められないカーティスだったが・・・。




お恥ずかしい話ですが、最初にこの映画を観た時・・・・
旦那さんが意味不明のことに対して勝手に大金を注ぎ込み→仕事はクビになって→保険は切れて→娘の大事な手術がパーになる、という私なら完全にブチ切れレベルの展開に対して、それでもとことんやらせてあげるという奥さんの姿を見て「一体これは何なのか」と。奥様の"愛情深さ"に慄きまして。で、そんなことで動揺しまくっているうちに、神経質な上に悪人顔のシャノンが悪夢に蝕まれて精神のバランスを崩していく・・・という物語がスローペースこの上なくじんわりじんわりと進んでいくだけなので、一体どうやってこの映画を観れば良いのか、実はピンときませんでした。

それでも"映画的"には「本当に嵐は来るのか!?来ないのか!?」とか「旦那さんの妄想が、実はノアの方舟レベルで予言が当たるお話だったり?」「いや、やっぱり当たらない、と見せかけてからのどんでん返し系?」と最後の瞬間まで勝手な期待?を胸に抱いていた私。

そうなんです、私は完全にこの物語の方向性を見誤っていたんです(ディザスターものとか、予言ものとか、SFものとか・・・)。で、あのラストシーンを見た瞬間に「あれ?今、私が見たものは何だったんだろう?私はこの家族に対して何を見ていたのだろう?」と急にアタマが回転し始めました。←遅すぎる・・・・ で、反省した私は、もう一度最初から観直してみることにしたんです。この映画は一体何を言いたかったのだろう、と。



これ以降は『テイク・シェルター』の内容に関わる記述があります。まだご覧になっていない方、これから鑑賞予定の方はご注意ください。


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マイケル・シャノン演じる主人公カーティスは一見いかつい(ウィレム・デフォー似の)風貌ではありますが、内面は朴訥・真面目で家族思いの男性であり、決して裕福とは言えないまでもシッカリ者の妻サマンサの努力もあり、慎ましくも温かな家庭を築いていました。しかし、不景気の煽りを受けて仕事の納期は厳しく、また聴覚に問題のある一人娘の手術費を抱えるなど、責任感の強い彼にとっては様々な重責を感じ、ストレスが少しずつ蓄積されていったのかもしれません。幻覚や悪夢に悩まされるようになるのです。

受身的な行動が多いのもカーティスの特徴です。
「クギが刺さった板が危ないから片付けておいてねー」とか「手話の講習会に行くはずだったんだからシャワーなんて時間ないわよー」で臭くて困っちゃう、とか「雨くらいで工期を遅らせるんな!仕事はさっさとすすめろー」とか周りから結構言われます。自分自身で決定し物事を進めるという積極性があまり見られない、受け身的な性格であることも分かります。


そんな日常と並行して、映画の前半まではカーティスが"悪夢"に苛まされる様子が描かれるのですが、この"悪夢"とはすべて「大切な娘」が関係しているんですね。娘と一緒にいると"嵐"が来て犬が襲ってくる。車で何者か襲われ娘を奪われる。嵐で家の中の重力が壊れ娘を必死に胸に抱く・・・。もしかしたらカーティスは、大切な自分の娘を必死に守っていかなくてはならない、という重責と、元々ある責任感の強さから自分の無力さや非力さが無意識に心の内に強く立ち上がり、彼なりの心のSOSを悪夢という形で見ていたのかもしれません。




30代で妄想型の統合失調症を発症したカーティスの母親。
彼女からの遺伝の影響を予感したことも、残念ながらストレスの原因の一つとなった可能性もあります。自分の症状に母親と同じものを感じ、その不安感が増した頃(ちょうど物語が一時間過ぎた辺り)から「嵐が来る」という妄想は強くなり、本人の感覚として幻覚や幻聴がはっきりとした形で現れ始めます。極度に興奮して感情の抑えが利かなくなるなど、元来のカーティスの穏やかな性格からは別人のような行動もあり、症状が悪化していく様子も描かれていましたね。


そんな中、彼は自分に出ている"症状"を自覚しながらも【シェルター作り】に没頭していきます。それは「不吉な嵐から家族を守りたい」という思いから強く駆り立てられた"妄想"であると同時に、「自分の妄想が現実であってほしい」「自分が見たものを肯定したい」という思いもあったのかもしれません。さらに、この【シェルター作り】への執着は"肯定"と同じかそれ以上に強い意味合いとして、"嵐"から逃れたい、つまり心理的な意味での【シェルター】="自分の心が避難出来る場所"としての存在意義もあったのではないかと思うのです。

カーティスが幻覚としてたびたび目撃していたこの"不吉な嵐"こそ、精神疾患を患うことへの恐怖や苦しみを表した"兆し"だったのかもしれません。

ただ、【シェルター】に避難する(原題でもある"Take shelter")=逃げ込むという行動は、彼自身が自分の病識から目を背けるということでもあるわけです。




そんな夫に対し「自分で扉を開けなくてはだめ」と、彼が捉われているものを自覚させ、現実と対峙するように促す妻の強さがここで際立ちます。夫が孤立しないよう理解して支え、認め、正しく医療に繋げられるよう行動するサマンサ。そしてカーティス本人も、苦しみや戸惑いを抱えつつも、自分の精神状態が今どの段階でどんな症状が出ているのかという病識をなんとか理解しようと努めていたこと。この夫婦が、この家族が同じ方向を向いたとき、物語はあのラストシーンに繋がっていくのではないかと思うのです。






ジェフ・ニコルズ監督のインタビューを探してみたら、以下のようなことも述べられていました。


But personally I think the ending is a bit tricky. I think there is a big shift in tone in the movie, it alternates between a super-realistic, blue-collar, gritty everyday Americana slice of life and a very poetic and lyrical element. I think this works because it’s a film about dreams and the dreams are establishing a duality of consciousness, your waking life and your dream life. And the end of the film, to me, is not necessarily meant to be taken literally, and it’s not necessarily there to say that Curtis was right or Curtis was wrong. This is not the point of it, because the fact of the matter is that the world is in the process of destruction. That’s not open for discussion, at least not in the way I look at it. Who could argue against that? It’s more about how you deal with it. And the important thing about the end is that the family is together. That’s the difference between the beginning and the end of the movie. In the beginning of the film, you’re seeing a man standing in his car park looking up at the sky all by himself, and in the end he is standing there with his family, he is not by himself anymore.

TAKE SHELTER: INTERVIEW WITH MICHAEL SHANNON

映画のエンディングを意図的に"tricky(曖昧、複雑に)"したこと。色調に変化をつけたこと。ラストは必ずしも映像通りの意味に受け取るものではなく、またカーティスが正しかったとか間違っていたというのも問題でもないということ。そしてもっとも重要なのは、ラストで家族が一緒にいるということだ、と。

そうなんですよねぇ!
映画の冒頭、カーティスが一人で嵐の空を眺めているシーンがありましたが、物語の中では他にも、嵐や鳥の大群といった"幻覚"はカーティスにしか見えず、同僚にも家族にもそれを解ってはもらえません。が、それと対比するように、ラストは家族でその嵐を見るのです。


・・・・いろいろな解釈はあるかと思いますが、私にはあの終末的な嵐のシーンはやはりカーティスの"幻覚"だったのだろうと感じました。しかし、それまでと大きく異なるのは、このラストシーンがたとえ"幻覚"であったとしても、彼はもう一人で恐怖を抱えているわけではないのです。家族で一緒にその嵐を見ているのですから。妻も、娘も。一緒に。


周囲の人間が認知できない実態のないものに対して本人は苦しめられており、そういった妄想、幻覚、幻聴といった症状を抱えている人の感覚や苦しみや辛さを、家族や周囲の人が如何に共有し受け入れ、信じてあげることがどれほど大事か。それがあのラストシーンに込められているのではないかと私は思いました。



また、精神疾患だけに限定したことではなく、家族として困難に陥った時にどのように立ち向かっていけばよいのか、家族とは、夫婦とはどんな存在なのか?そんなことも考えさせられた映画でもありました(←私には)。


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